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平壌の目抜き通りに英語含むスローガン登場 丹藤佳紀(高11回)

―民族文字専用の原則に小さな風穴(?)―

 5月の連休に、首都の平壌を中心として板門店、妙香山など朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の数カ所を訪れた。「朝鮮問題を考えるジャーナリスト懇話会」交流団の一員としてのもので、筆者にとっては1991年以来19年ぶりの訪朝だった。政治、経済、社会体制の基本には大きな変わりがないものの、平壌市内などで目につくものにはそれなりの変化が起きていた。
 その一つが表記の英語(略語)含むスローガンである。内容は、「CNC 最先端を突破しよう」というもので、その右下に北朝鮮が人工衛星を打ち上げたというロケットが描かれている(写真左)。ここに盛られた「CNC」とは、Computerized Numerical Control(コンピュータによる数値制御)で、機械工学での最高水準を意味しているという。
 こうした現象について、特にお願いして社会科学院の言語学研究所朝鮮語史研究室長である安慶上氏に解説してもらった。安室長は「21世紀のIT時代、他国の成果を吸収するのは当然です。その表現には、民族固有語使用を基本原則に、世界的な流れを考慮すべきです」と語った。
 そうした方針から、大衆の間でも「テレビジョン」という英単語はすでに普及しており、キロメートル、トン、ヘクタールなどのメートル法度量衡も以前から使われている。筆者が滞在中目にした朝鮮労働党機関紙 『労働新聞』には、外国のある団体がインターネットで開いているホームページに金正日総書記の論文を掲載したことが伝えられていた。「インターネット」も「ホームページ」も民族文字(チョソングル。韓国ではハングルという)による音訳表記である。日本で言えばカタカナ語に相当することになる。
 上記のスローガンに盛られた「CNC」が画期的なのは、そうした外来語を音訳や意訳ではなく英語(略語)をそのまま使ったことだ。安室長は上記のように一般論として回答したが、英語(略語)使用の理由としては二つ考えられる。
 第一は、「コンピュータによる数値制御」という意味をそのまま朝鮮語で記述したのでは長すぎて、看板に書くスローガンにならないこと。そのため、思い切って英語の略語を掲げたものだろう。
 いまひとつは、毎週土曜日に設けられている学習会で、市民がその意味をすでに学んでいること。街頭の看板に「CNC」なんて原語を盛り込んで市民にわかるだろうか?とわれわれへの付き添いに訊くと、出席が義務づけられている学習会で「すでに学習済み」の答えが返ってきた。故金日成主席の生誕100周年にあたる2012年に、「強盛大国」の大門を開けるという大目標達成に向けて、どうやら「CNC」の意味する技術革新についてのキャンペーンが展開されてきたようだ。
 さて、北朝鮮では解放後の1946年、国字(チョソングル)普及・漢字廃止の方針が打ち出された。しかし、当時は国の体制も過渡期で、『労働新聞』も国字・漢字混用の文体だったという。朝鮮民主主義人民共和国建国後の1949年9月に至って国字普及・漢字廃止が公式に施行された。
 それから半世紀余、この原則はしっかり守られている。金正日総書記の中国非公式訪問を一面トップで伝える、『労働新聞』(5月8日)も題字・発行年月日を含めて漢字は一字も使われていない(写真右)。
 漢字廃止の理由として安室長は「民族文字を使うことにより、誇りと自負を高める」ことをあげた。これは韓国でもハングル専用論者が主張するところである。
 ただ、北朝鮮では、小学校4年、中学校(中高一貫制)6年の義務教育の過程で、英語は小学校3年生から、中学校1年生からは限定された数の漢字教育が行われている。韓国で発表された論文によると、金正日総書記は、漢字教育の目的として①祖国統一②中国・日本などとの交流をあげたといわれる。
 朝鮮語は、やまと言葉と漢字語からなる日本語同様、固有語と漢字語からできているが、語彙全体に占める漢字語の割合は日本語より高い。そこには同音異義語がかなり存在することになるが、安室長は学術文献に限って漢字語による補充を認めていると語った。
 ところで、金正日総書記の後継者と噂される三男・金正ウン氏の名前の「ウン」は、発音表記をローマ字書きにすると、wunではなくunだと韓国側から伝えられ、漢字表記は当初いわれた「金正雲」ではないらしいとなった。後者となると、漢字では「銀」、「恩」、「殷」などが当てはまるが、後継そのものについて北朝鮮側から公式発表がないため、どの漢字が正解なのかさまざま論議を呼んでいる。
 その命名法だが、安慶上室長によると、二つの原則があり、①呼びやすい、②意味のよいものが選ばれるという。この②については、その音に相応する漢字の意味を考慮しつつも、かつてのように五行説や十干十二支にとらわれたりはしなくなっていることを安室長は強調した。そして、漢字ではなく固有音からの名前が増えているとし、「ハンキリ」(ひとつの道)、「ポミ」(春)などの例をあげた。この点も韓国に共通するもので、女子ゴルファーの朴セリがその典型である。(ブログ「リベラル21」から転載)

(追記)
 5月8日に帰国してからの見聞で、「CNC」という英語スローガンにはもうひとつ重要な意味合いが含まれていることを知った。このスローガンは、金正日総書記(国防委員長)の後継者と伝えられる三男・金正ウンを指しているというのである。
 なるほど、筆者の撮影した「CNC」の写真は、東京でいえば東京駅と皇居の間の丸の内地区のような一等地にあった。そして、それ以上に重要なイベントが起きていた。
 さる3月、東海岸の工業都市・咸興市で「2・8ビナロン連合企業所」という合成繊維工場のリニューアルと操業再開を祝う大衆集会が開かれた。労働者、市民など10万人を動員したという大規模な集会には、きわめて異例なことに金正日総書記が出席し、党・軍・政の要人が勢揃いした。その集会で、参加者の中に巨大な「CNC」の人文字がつくられたというのである。
 ビナロンとは、在日朝鮮人の科学者も加わった京都大学の研究グループが1939年、ナイロンに続く世界2番目の合成繊維として開発したビニロンのことである。その在日朝鮮人科学者が北朝鮮に製造技術を持ち帰り、金日成首相が「わが国独自の合成繊維」としてビナロンと命名した。
 北朝鮮に多い石灰岩と無煙炭を原料とするだけに発展が期待されたが、咸興市「2・8ビナロン連合企業所」は1994年以降、操業停止状態続いていた。2年ほど前から改めて「人民生活向上」のスローガンが掲げられるようになり、ビナロン連合企業所にもテコ入れが行われて操業再開にこぎ着けたようだ。
 そこに登場した「CNC」という略語の扱いは、こうした業績も新しい後継者によるものであることを暗黙のうちにアピールする狙いがあったのだろう。

鶴沼ウルトラ100kmマラソン完走

鶴沼ウルトラ100kmマラソン完走・男涙の金メダル 佐瀬弘(高14回)

> 2006年に投稿した「鶴沼ウルトラマラソンで称号授与」の続編です。前回で書いた予定より早く2009年4月にゴールドウルトラマラソニアンの称号を授与された。
 2009/4/5、奇しくも、会津高校同窓会の日で、待ちに待った鶴沼ウルトラ100kmマラソンである。前泊し、食事会でゴールド候補として紹介される。ゴールドの規定は下記による。私の場合、走行距離1,000kmが未達事項で83.96km足りない状況である。もちろん100km完走すれば文句なしであるが、最悪ダブルフル(84.39km)でもいいと主催者より暖かいお言葉をいただいたが、完走を心に誓い、あまり飲み過ぎないよう自制した。
 早朝5:00スタート、周回毎にタイムを記入、それによると9周までは30分台、10~14、17周は40分台の前半、15,16、18周で歩きが入ったため40分台の後半、19周目は最後の力を振りしぼり結果12時間34分26秒でゴールした。直ちにゴールドの表彰が行われ、賞状、記念品のウエアーをいただいた。31人目のゴールドだそうで、しかもゴールド取得の最年長とのことである。10周以降は胸焼けに悩まされゴール後、飲食物を受け付けず、内臓のダメージは想像以上であった。物の本によると胃に血液が不足し、胃酸過多になり、食道が胃酸で爛れた状況だったらしい。10周以降、胃酸を押さえ込もうと自家製梅干を水と一緒に飲んだが、飲んだ直後は、効き目があったが根本的な解決にはならなかった。ウルトラのトップランナーに聞いたところ薬(H2ブロッカー)は必需品とのことである。
 次回からは薬の服用が必要と思われる。全身疲労で帰路の駅では普段使用しないエスカレータ、手すりにお世話になった。ありがたいことである。なお、2009年4月は52.07kmの部しかなく、もちろん5時間37分13秒で完走した。
 鶴沼ウルトラマラソン大会での走破距離が1000kmに達し,かつ10回以上完走し,かつ100km以上の種目を完走したことがある者. なお、ゴールドの上に「帝王」という称号があり、毎年4月100km、8月52.07km完走したとして、最短でも7年かかり、72才となる。まず無理な称号であるが、目標にしていきたい。現在エンペラー4人、ゴールド34人である。

「模擬原爆」積載のB-29、会津若松から謎の反転

「模擬原爆」積載のB-29、目標の会津若松から謎の反転  菊池良輝(高8回)

 米軍は第二次大戦中、日本への原爆投下に際し、第20航空軍傘下の第313爆撃航空団(テニアン島北飛行場)隷下に、ほぼ独立した第509混成群団と呼ばれる特殊部隊を編成すると共に、特別に改装されたB-29(型式B-29-45-MO)15機を配し、原爆投下作戦任務に従事させた。
 米軍は原爆投下訓練用に長崎原爆とほぼ同型同重量の爆弾を製造し日本各地への投下訓練を実施した。その爆弾は重量1万ポンド(4.5トン)、爆弾重量比51%、AN‐MK219と呼ばれた高性能接触信管3個を装着した大型爆弾であり、殺傷力を強める為、外皮を薄くしたこともあって、1万ポンド軽筒爆弾(兵器)と呼ばれた。また、その弾体は橙黄色に塗装されていたことからパンプキン(かぼちゃ)とも通称された。日本では一般に「模擬原爆」と称している。
 写真は実際に長崎に投下された原爆であり、パンプキンはこれと同サイズである。(写真の出典:「工藤洋三・奥住喜重『写真が語る原爆投下』」)
 米軍資料によると模擬原爆による爆撃は昭和20(1945)年7月20日(金)から始まり、この日、茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市大津町)、東京都日本橋区・麹町区の境界点の堀中(現・中央区の東京駅前外堀通り)、福島市、福島県平市、新潟県長岡市、富山市の一都四市一町が爆撃された(大津町は完全には確認されていないが、他の5都市は日本側の研究により確認されている)。
 以後、終戦前日の8月14日(月)の愛知県春日井市(4発)、同西加茂郡擧母町(3発。現・豊田市挙母町)に至るまで米軍資料では29市町村に49発の巨弾が投下されている(米軍資料では29市町村49発であるが、当時の報道・戦後の研究等により31市町村以上・50発以上の可能性がある)。

7月26日の平市への爆撃

 7月26日(木)平市が模擬原爆を投下された。平市は20日(金)にも爆撃されており(現・いわき市高久)、再度の災厄である。26日は平市立第一國民學校(現・いわき市立第一小学校)が直撃され、教員3名が殉職、53名の負傷者を出した外、校舎が壊滅、民家1,517戸が破壊されている。唯、避難誘導が当を得ていたと思われ、学童に死者が出なかったのは不幸中の幸いと見るべきであろう。
 26日の爆撃については、『朝日新聞』(東京本社版)・『讀賣報知』等が報道すると共に注意を喚起しているが、『福島民報』7月27日(金)に、以下の注目される記事がある。
 廿六日午前八時五十分頃B-29の少数機は本県東南部に侵入、西北進し會津方面を行動したのち平市上空において爆弾一個を投弾、東方洋上に脱去したるも被害軽微なり。
 平市に模擬原爆を投下したB-29は当初、会津方面に飛来、後、反転して平市に向い、当市に模擬原爆を投下した、と言うのである。
 投弾時間・投弾個数・被害状況等明らかに会津に飛来したB-29であるが、当該機は当初、新潟地域を目標としたようであり、新潟方面から一旦福島県東南部に飛来、次いで会津に侵入し、また平に向ったのであろうか。

7月29日の郡山市への爆撃

 7月29日(日)にもB-29が会津に向かい途中反転している。『ふくしま 戦争と人間』(福島民友新聞社)に以下の記事がある。
 (七月)二十九日=快晴。午前八時三十分、B-29二機が県南に侵入、・・いったん会津に向ったが、途中で反転して郡山上空を旋回、郡山駅中心部をめざし破壊爆弾を投下、日東紡郡山第三工場周辺に投弾する。郡山駅付近で二十四人が爆死、日東紡で十五人が爆死した。
 米軍資料にも29日、28,900フィート(約8,670m)の高度から郡山軽工業地帯に、29,300フィート(約8,880m)の高度から郡山操車場に模擬原爆を投下したことが記されている。『朝日新聞』(東京本社版)・『毎日新聞[東京]』『讀賣報知』等にもB-29が会津に向ったとの記述はないが同趣旨の記載があることから、明らかに模擬原爆投下記事である。なお、『福島民報』が、同機は塩谷崎(いわき市)から侵入した旨を伝えている。

B-29の日本爆撃行

 7月26・29の両日、B-29が会津に飛来、反転した事実を考える必要がある。
 テニアン島北飛行場を離陸したB-29は硫黄島まで直進し、同島上空で編成を整え、ほぼ定められた航空路に従い日本に向った。米軍は硫黄島から日本への数ルートを設定し、各ルートに救難用B-29やPBY・PB4Y等の飛行艇を上空から哨戒させると共に、潜水艦・水上艦艇を配し、故障や日本側からの被弾により不時着水するB-29に備えていたのである。
 テニアン島から南東北までは往復約6,000km。B-29の航続距離は6,700kmほど。仮にテニアン島から新潟・会津方面を視野に入れて飛来する場合、ある程度の余裕をみる必要があるのでB-29の能力としては距離的にそれ程の余裕はない。即ち明確に目標としていたからこそ会津上空に飛来した、と見るべきである。
 B-29はまた機首にノルデンM-9爆撃照準器と呼ばれる照準器を装備していた。この照準器は爆撃目的地をセットして操縦系統に接続すると、あとは自動的に機を目的地まで誘導するという装置である。迷って会津に入り込むというのは、そうしようにも出来ない仕組みになっていたのである。
 第509混成群団の目標は、訓練とは言え軍事行動であるから当然それなりの効果の見込める目標を選んでいる(後の報告書でも「効果」と言う言葉を使っている)。模擬原爆投下地は基幹産業(軍需工場が多い)、軍施設・重要鉄道施設等が多い。
 仮に会津への爆撃目標があったとすればひとつには連隊兵営が挙げられる。連隊兵営は追手町・会津若松城三の丸東側、現在の県立博物館、陸上競技場一帯に衛戍病院と共に設営されていた。
 若松の連隊は、明治31年3月24日に軍旗を親授された歩兵第29連隊の設営を最初とする。
 同隊は周知のように、ソロモン群島ガダルカナル島で死闘の上、残置され補給を断たれた残存兵・傷病兵に多くの餓死・傷病死を出している。連隊は郷土からの徴募による。関係者の思いは如何ばかりであろう。
 若松ではその後、65・85・129・155・272・407連隊と結成され、最後となった505連隊の軍旗拝受は昭和20年6月19日である。
 全土に投弾された施設のうち軍関係では、7月24日(火)の徳島連隊への爆撃(米軍資料にはないが、投下時の描写は模擬原爆と推定される。兵士70余名が戦死した)、同29日(日)の舞鶴海軍工廠(学徒動員の京都市立洛北実務女学校生徒ら97名が爆死した)、8月8日(日)の宇和島市・松山海軍航空隊宇和島分遣隊(推定18名が戦死した)等への爆撃が挙げられる。若松連隊が目標となる可能性も故ない話ではない。
 また、米軍はマル秘扱いの飛行機エンジン工場・石油精製施設・軍需品供給施設等の統合目標を作成しているが、その中に発電kW別の発電所を示すものがあり、Inawashiro No.1, No.2, No.3, No.4 が掲載されていて、目標番号が記されている。
 言うまでもなく、日本発送電(現・東京電力)猪苗代第一(河沼郡日橋村:現・会津若松市。最大出力50,000kW)・同第二(同村。34,000kW)・同第三(同村。19,200kW)・同第四(耶麻郡駒形村:現・喜多方市。30,500kW)の各発電所を指している。
 模擬原爆・通常爆撃、共に発電所が爆撃された例は無いので、即断はできないが米軍の「目標」になっていたとは言えそうである。
 なお、同電力は東京・田端変電所に送電されていた。米軍がもしそのことを捉えていたとしたら、同発電所は微妙な立場にあったとも言えそうである。

米軍の情報収集能力

 仮に米軍の投下目標の一つに若松の連隊兵営があった場合、東北の一隅に若松なる地があり、その一角に連隊兵営の存在を把握していたのか、との問題がある。
 米軍は日本を爆撃するに際し、180の市域地を選定して爆撃しているが若松は110番目にリストアップされている(実際に爆撃されたのは複数回爆撃された東京都など7都市を含め73市域)。さらに注目されるハンドブックがある。 
 開戦前から日本の暗号を解読し、日本軍の動きを逐一捉えていた米軍の諜報活動は会戦中も真価を発揮している。
 米軍陸軍省は44(昭和19)年10月、『ジャパニーズ・ミリタリー・フォーサイス(日本の軍事力)』と呼ばれるハンドブックを纏めた。本報告書は後、91(平成3)年にルイジアナ州立大学から刊行されているが、A4版四百頁余にわたる大部のもので、内容的にも9割は正しいと評価されている。
 同書中に44(昭和19)年5月現在の陸軍師団編成表が有り、第2師団 Sendai (仙台)はSendai 第4連隊、Niigata:Shibata (新潟:新発田)第16連隊、Fukushima:wakamatsu (福島:若松)第29連隊により構成される旨書かれている。
 第4連隊は明治8年9月に仙台鎮台にて軍旗を親授され、明治21年に第2師団に所属している。第16連隊は仙台鎮台のもと新発田を衛戍地として発足し、明治17年8月に軍旗を親授されており、後、第2師団に編入された。
 米軍の諜報は正鵠を得ている。若松市はもとより市に兵営があり、その兵営において連隊編制が続いていることも当然捉えていたであろう。

日本での模擬原爆の一つの捉え方

 実際に若松に模擬原爆を投下する計画があったのか、との問題とも関連するので以下少し述べたい。
 米軍が原爆投下の準備を進め、その為の訓練弾まで作って投下していることなど、もとより日本国民の知るところではなかった。
 昭和20年7月下旬から8月と言えば、44(昭和19)年6月15・16日の八幡製鉄への爆撃から始まった米軍の絨緞爆撃はこの頃苛烈を極めていた。数百機の銀翼を連ねて飛来し、焼夷弾の雨を降らせていく中で、単機或は少数機のB-29が一個の巨弾を投下して去る行為に、当時の報道機関がある種の疑問を抱いたらしい記事も散見する。
 また、当時の報道で共通していることに弾体を1トン爆弾としていることがある。当時の日本には1トン以上の爆弾は存在しなかった。これは当時の日本の工業水準が基本にあるが、日本の爆撃機の搭載能力とも関連している。日本の爆撃機中最大の搭載量を誇ったのは、九七重爆と呑龍であるが「1トン」に過ぎない。連山・深山(共に公称搭載能力4トン)等の四発機を開発、数機を製造したが、当時の日本に四発機を爆撃機として実戦配備する能力はなく、輸送機として運行されている(飛行艇では二式飛行艇が1.6トンの爆彈搭載能力を有していた)。
 当時の日本の報道機関が4.5トンの模擬原爆を1トン爆弾と称したのは、それ以上の爆弾感を持たなかった故であろう。ちなみに戦艦大和の主砲の砲弾は1.46トンであった。

何故、会津上空に飛来したB29が反転したのか

 7月26日(木)・29日(日)両日の天候が気にかかる所である。若松測候所の千葉仁一氏の教示を戴く事になった。戦争末期の混乱期にも拘わらず、猪苗代測候所(若松測候所の前身)に気象データが残されており、データを基に気温・風速・日照時間等詳細な解説を下さった。そして、26日を次のように推測されている。
 午前中は薄雲りの状態で、猪苗代湖上に薄い霧が出ていた。午後には雲が徐々に厚くなり、16時12分~32分にかけて弱い雨が降った。風は午後になって雨風が多少強くなった。
 前記の『福島民報』記事、体験談等により爆撃された時間は午前9時頃と推定される。会津上空には8時30分~40分頃滞空したことになる(若松~平間は約100km)。米軍資料に依ると模擬原爆投下高度は28,000フィート(約9,330m)から31,000フィート(約10,300m)であった。
 雲は8,000m~9,000mくらい、とのことなので当日の雲の状態では観測に不適となる恐れがある。ましてや霧が出ていると不適の度合いはさらに増すことになる。実際、米軍は投弾高度から着弾時の爆裂写真を多く撮影しており、「晴れている」ことは一つの条件であった。29日はどうか。郡山駅が爆撃されたのが9時15分頃と思われるので、爆撃機がそれより先に会津に飛来したのであれば、会津滞空時間は9時頃となる。
 当日の天候につき千葉仁一氏は、気温・風速等詳しく分析され、次のように推測されている。
 29日は最高気温が28.8度であった。7時前までは下層雲により曇っていたが、7時前後に下層雲が消散した。その後は15時頃までは薄曇の状態で、9時頃から14時頃太陽の周りに薄いかさが観測されていた。15時以降再び下層雲が多くなって曇りとなった。夜には快晴となった(快晴となった時間は不明)。このことから29日は朝と夕方に曇っていたことと推測される。風はそれほど強いという感じではない。
 朝・夕は曇っていたとのことである。やはり着弾観測には不向きと判断したのではあるまいか。
 また、注意したいのは、「目標を隠す雲というのは、何も厚い雲とは限らなかった。極めて薄い霞のような濛気であっても、地上からはB-29がはっきり見えるのに、上空からは濛気が散乱する光に妨げられて、地上を目視しることはできなかった」という事実があり、少しの雲でもあれば上空からの観測に妨げとなるという現実があった。
 模擬原爆の投下を目的とするB-29が無駄な動きをする筈はなく、26・29の両日、会津爆撃を策して飛来したB-29は、観測不向きの天候との判断により会津より去ったと推測される。

終わりに

 7月24日模擬原爆を投下された川崎重工業兵庫工場の百年史に次のようにある。
 1t(トン)爆弾による爆弾を受け、建物をはじめ製造中の蒸気機関車3両が吹き飛ばされ・・(『未来へつづく100年の軌跡』)
 100トンはあろうかと言う機関車が吹き飛ばされたのである。人的被害も多くの被弾地で出しているが、先記した舞鶴工廠では女生徒ら97人が爆死している。
 若松連隊が直撃されたらどうなったか。特に会工、鶴城・謹教の両國民學校、若女等は兵営に隣接していただけに、その被害は計り知れない。
 いずれにせよ7月26・29の両日は若松にとって「天祐」であったように思える。
                - 『会津会々報』第115号からの転載 -

鶴沼ウルトラマラソン称号授与

鶴沼ウルトラマラソン称号授与 佐瀬弘(高14回)

 高14回生の佐瀬弘と申します。「物より思い出」をモットーに生きたいのですが、「やっぱり物よ」という連れ合いがいるため経済的に負担の少ないマラソンにのめり込んで約20年が経ちました。市民マラソンは自己満足の世界と言われてますが、この度、私にとって素晴らしい「思い出」が授与されました。
 場所は茨城県土浦市神立町(最寄り駅JR常磐線神立駅)の1周5.207kmの周回コースで、4月に100km、52.07km、8月に52.07kmと年2回開催され、コース途中にある、鶴はいませんが、鶴沼という小さな沼が大会名の由来です。
 古い話で恐縮ですが、フルマラソンでサブ3(3時間をきる)達成のための練習の一環というのが参加のきっかけでした。そのおかげで1991年11月「つくば」のフルでサブ3が達成できました。
 1年間で100kmマラソン完走、サブ3、富士登山マラソン完走がランニング界の3冠王と言われてますが、富士登山マラソンのみが未達成で悔いが残っています。
 その後トライアスロンにはまり、1992年10月佐渡トライアスロン(スイム:3.9km、バイク:184km、ラン:42.195km)も完走しました。
 そのため、鶴沼ウルトラマラソンには1991年,1992年連続100km完走後は10年間のブランクがありました。しかし、称号に魅力を感じ、2001年から再びチャレンジし始めましたが、当初、不本意ながらフルマラソンの距離でのリタイアがつづきました。
 2004年からは毎回参加完走し、今年(2006年)4月2日の大会で念願のブロンズウルトラマラソニアンの称号が授与された次第であります。
 称号授与規定は下記のとおりですが、今回、大会史上初めてウルトラマラソニアン・エンペラーも誕生しています。しかも私の所属クラブ「神宮AC」のランナーです。

《帝王》ウルトラマラソニアン・エンペラー
 鶴沼ウルトラマラソン大会での走破距離が2000kmに達し,かつ100km以上の種目を10回以上完走した者。
《金》 ゴールドウルトラマラソニアン
 鶴沼ウルトラマラソン大会での走破距離が1000kmに達し,かつ10回以上完走し,かつ100km以上の種目を完走したことがある者。
《銀》 シルバーウルトラマラソニアン
 鶴沼ウルトラマラソン大会で10回完走した者。
《銅》 ブロンズウルトラマラソニアン
 鶴沼ウルトラマラソン大会に10回以上参加し,かつ最低1回は50km以上走ったことがある者。

<これまでの成績は>

1.1991年3月 100kmの部完走  9時間42分27秒
2.1992年4月 100kmの部完走  9時間44分27秒
3.2001年9月 52.07kmの部 42.195kmでリタイア 4時間15分14秒
4.2002年8月 52.07kmの部 42.195kmでリタイア 4時間43分09秒
5.2003年9月 52.07kmの部 42.195kmでリタイア 5時間08分12秒
6.2004年4月 52.07kmの部完走 5時間10分57秒
7.2004年8月 52.07kmの部完走 5時間58分03秒
8.2005年4月 52.07kmの部完走 5時間03分36秒
9.2005年8月 52.07kmの部完走 5時間58分45秒
10.2006年4月 52.07kmの部完走 5時間00分16秒

<今後の予定は>

11.2006年8月 52.07kmの部完走
12.2007年4月 52.07kmの部完走
13.2007年8月 52.07kmの部完走 シルバーウルトラマラソニアン
14.2008年4月 100kmの部 78.105km(15周)以上
15.2008年8月 52.07kmの部完走
16.2009年4月 100kmの部 78.105km(15周)以上
17.2009年8月 52.07kmの部完走 ゴールドウルトラマラソニアン

 2009年は勤務も区切りの65歳、本大会のテーマ「がんばる君は美しい」を励みに、当面、シルバー、ゴールドを目標にがんばります。
 会津高校の同窓にはもっと凄いランナーがいると思いますが、とりあえず、酒の肴代わりの話題にでもしていただければ幸いです。

山田英夫君遭難之碑修復移転

山田英夫君遭難之碑修復移転の報告 兼子八郎(高10回)

 平成14年の秋、全国に散らばっている同期生へ案内をして、東山温泉にて同期会を催しました。その時それに先だって有志25名が中田浜の学而会館を訪ね、山田英夫君の慰霊碑に献花して額づきました。(我々が高校3年生のときのことですが、ヨット操作中に突風を受けて転覆し、山田英夫君は救助を求めて岸に向かって泳いだが力尽きて遭難したものです。)
 このときこの慰霊碑が松の根っこで持ち上げられて基礎が毀れ、今にも倒壊寸前の状態となっており、これを見て一同愕然といたしました。夜の集いの席上この様子が報告され、「我々第10回卒業生の手で復元しなくては」との声が高まりました。
 平成15年になってから有志が現地調査、財団法人学而会館との折衝、修復移転に要する費用積算などに奔走し、設立発起人24名をもって平成16年3月に故山田君慰霊
碑移転事業会を立ち上げました。この事業会への協賛依頼は高10卒の所在判明同期生239名に送り、101名の方々の賛同が得られました。賛同者は、北は北海道から西は九州に到り、更には中国に留学中の人まで多岐にわたりました。
 文字を深く彫り直して立派な台座が付いた修復後の慰霊碑が、財団法人学而会館のお許しを得て会館敷地へと移転され、平成16年9月23日に除幕式が挙行されました。この式典には同期生32名と恩師の栗村道彦先生及び早川俊一先生の他に、故山田君のご令弟(山田昌司さん会高1年生在籍)やご姉妹などのご夫婦3組と母校の鈴木敏夫校長、桑原勇蔵同窓会長、中沢剛学而会館理事長などにもご出席を頂きました。除幕式では栗村先生が自作の漢詩を吟じて下さいました。
 事業会から財団法人学而会館に対して安全諸設備購入のお役に立てて頂きたいと募金の一部を寄贈させて頂きました。ご遺族の山田様からも同様趣旨の寄金がなされました。事業会の閉鎖に伴い、剰余が生じましたので、1月17日に有馬、秋月の両君が学而会館の中澤理事長を訪ね、更に4万円を追加寄贈しました。中澤理事長から「浜辺に作った桟橋の撤去作業などにも費用がかかり大助かりです。こんなに高額な寄付も初めてのことで皆様に宜しくお伝え下さい」とお礼の言葉がありました。残余の端数は今後の同期会費用に引き継ぎます。この紙面をお借りしてご報告致します。(故山田君慰霊碑移転事業会 広報連絡担当)



山田英夫君遭難当時の回想

中田浜を想ふ(山田英夫君遭難当時の回想) 兼子八郎(高10回)

あの日は三角波が立っていて、波と波がぶつかりあって頂上で波が砕けました。
 彼らが帰って来るのが遅いのでカッターで見に行くことになり漕ぎ出して行きました。当初はせっかく見に行くのだから、少しは困った顔をして居るといいなどと、変な話をしていました。

    ヨットにて出でし友らが帰へらざり
        カッター漕ぎて探しに出でぬ

 湾から出ると状況は一変し、あの三角波にカッターが打ち上げられ、波の上に浮いた形となり、漕ぎ手の六人のオールは一斉に空を切りました。漕ぎ手皆揃って後ろへでんぐり返ったのは云うまでもありません。

    荒波に押し上げられしカッターは
         櫓が空を切る波の上なり
    六本のオールが揃ひ空切りて
         漕手六人でんぐり返りぬ

 小藤が崎に打ち上げられた形のヨットを発見したとき良かったと思いました。
 行って見れば砂浜に乱れた足跡が有り、彼らは助かったのだと思いました。探し求めて見つけたのは、炭焼き小屋の窯の上に寝ているぐったりとした3人でした。ここで山田君が助けを求めに荒波の中を独りで泳ぎ出していったことを知ったのでした。 

    荒波に揉まるる友を助けむと
        泳ぎ出でたる君が心根

 その前夜、彼山田君とは意気投合して義兄弟の契りを結んだものでした。そんな訳も有ってか、学校へ行く気にもなれず、毎日中田浜へ通い続けました。山田君が見つかった6日目の晩は栗村先生と上原君と3人でここで夜を明かしました。

    義兄弟の契り交はせし君なれば 
        上がるを待ちて浜に通ひし

 悲しみの多い悲痛な出来事だったと、当時を偲びつつ思う今日この頃です。あれ以来およそ半世紀を経ましたが、忘れられない思い出として胸の中にどっしりと残っています。

    半世紀経りにし今なほ忘れざり 
        ぶつかり合ひて砕け散る波