第9回会津歴史探訪の旅 保科氏の古跡を訪ねて

◆21名が参加

 平成24年度会津歴史探訪の旅は、4月17(火)・18(水)の両日、会員9名の他、直木賞作家中村彰彦氏及びご令室、氏が紹介くださった12名、計21名の参加を得て行われた。
 訪問地は長野県諏訪市・伊那市(高遠)・長野市の各地にて、「保科氏のルーツの地」が主なテーマである。
 9時、新宿西口を貸し切りバスにて出発。今回の細部に亘る立案準備に当たった実行委員長・同窓会総務委員会副委員長米森公彦氏(高31回)及び団長・同窓会副会長佐々木毅氏(13回)が挨拶すると共に主旨概要を説明。一路信州へ。

◆諏訪大社(上社本宮(かみしゃほんみや))

 周知のように日本建国伝承の一掬を伝える信濃国の一宮神社である。保科家の鼻祖・保科行遠(12世紀中葉)は諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと)の子)の後裔という。また桓武天皇(在位739‐806)の代からという寅・申歳(1干支年に2回)に行われる御柱(みはしら)祭の勇壮さと、その時の柱を大社の四隅に建てる関連性の説明に耳をそばだてる。

◆高島城(諏訪市)

 16世紀後半、諏訪湖畔に建てられた城。現在は高島公園として開放されており、復元された天守閣内の高島城資料室ともども観光案内の方の説明を受ける。

◆伊那市高遠へ

 保科が高遠に入ったのは15世紀後半から16世紀初頭と推定され、その地に立つ高遠さくらホテルに投宿。18時からの宴席には「名君〝保科正之公〟の大河ドラマをつくる会全国組織副会長・伊東義人氏(前高遠町長・会津親善大使)・同幹事長・伊藤良一氏を始め、伊那市の関係者が列席下さり、保科正之に纏わる話に花を添えると共に、正之公の大河ドラマ化実現に向けての協力が話し合われた。

◆城址公園に桜を鑑賞する

 20時半。名高い(夜)桜観賞をすることになり、高遠城址公園へ。観光案内のガイドさんの案内により、園内諸施設等を参観しながら、当園の桜は、「戦国末期に散華した武田勝頼・仁科五郎盛信らの血を吸って鮮やかな姿を見せている」とのガイドさんの説明に、正に春嬌を堪能すると共に厳粛さを味わった一刻でもあった。

◆高遠町歴史博物館

(18日)前庭に保科正之・生母お静(志津)の方及び、三体の大願成就地蔵のレプリカが建立されている。正之公とお静の方の顔は、骨相学上からの推定であるが背丈は推測とのこと。
 館内には高遠の歴史を伝える、江戸期高遠城下の町割想定模型等が展示されている。また、館内から絵島囲み屋敷が俯瞰でき、絵島の運命を慮った。

◆左源太の墓に詣でる

 内藤家の菩提寺であった満光寺(西高遠)には、保科正光の後継として養育されながら、正之公が保科家に入って間もなく急逝した小日向左源太(おびなたさげんた)(長谷川政次『高遠藩』)の墓があり、香華を手向け、冥福を祈る。

◆建福寺(西高遠)に詣でる

 当寺は1176年に文覚上人によって開創されたと伝えられる保科家の菩提寺。保科正直・正光の墓石と並んで勝頼の母(「諏訪御料人」等)と伝えられる墓が建っている。香華を手向け、冥福を祈った。

◆清水寺(せいすいじ)(長野市若穂保科)

 清い水が湧出するところからの命名という。現在も岩肌から勢い良く水が迸っている。803年の開山を称され、武田信玄の中興を経て徳川家の祈願寺となる。

◆廣徳寺(長野市若穂保科)

 保科正利(~1506)が四哲の一賢といわれた松庵寿永師を開祖に迎えて保科氏の嘗ての居館跡に建立したもの。寺紋は保科家と同じく角九曜である。会津保科松平からの音信は明治維新まで続いたという。
 ご住職より保科家の歴史共々、寺院内の本堂大縁天井画等の貴重な文化財の詳しい説明解説を頂いた。本堂にて香華を手向けさせて頂き。保科家累代の冥福を祈った。

◆お礼

 道中、車中にて中村彰彦先生には適時解説を頂いた。この場を借りて謝意を表したい。なお、先生は『会津人群像』No7(歴史春秋社)に、「保科家、その発祥の地を訪ねて」を寄稿されています。併せご一読下さい。
(本文:菊池良輝(高8) 写真:米森公彦(高31))