斗南に移封になった旧会津藩士の足跡を訪ねる旅
9月16日(土)7時に東京駅日本橋口で「會」の旗印に集合した。参加者は会津会や会女の3名、大宮、若松、仙台在住の方々の途中乗車も含め、合計33名であった。会津トラベルの案内で、鈴木団長のもと新幹線指定席にそれぞれ何とか乗車、途中遅れたものの3時間弱、10時25分に二戸駅についた。会津観光と同じみちのりグループの『岩手県北観光バス』に乗り込み出発した。
まず斗南藩についてであるが、明治2年11月、松平家の再興が許され、松平容保の嗣子である生後5か月の容大(かたはる)公を藩主に斗南藩が立藩された。3万石と減っただけでなく実際の米は7380石、金品入れてわずか1万石と言われる。斗南藩領地は斗南半島と三戸や五戸近郷との飛び地である。明治3年4月には黒羽藩から引継ぎが行われ、移住第一陣300人が明治3年4月29日に品川沖から蒸気船で八戸港に入り翌日には五戸に藩庁が置かれた。明治3年の先発の藩士達がむつ市田名部に着いたときは住民の提灯行列に迎えられたという。五戸の仮藩庁は明治4年2月にはむつ市に移った。御薬園で生まれた幼い藩主容大が明治3年9月に駕籠に収まり会津を出立、仮藩庁の五戸まで20日間、明治4年2月、円通寺にたどり着くまで五戸からさらに3、4日かかったとみられる。容大公の為、牛の帯同で新鮮な牛乳付きだったという。陸奥の円通寺の藩庁職員は山川浩大参事を含めて約118人で組織され容大公を迎え藩士たちの士気も上がったという。新潟から陸奥湾に明治3年6月に蒸気船で上陸した藩士家族は1800人と言われる。他のルートも含め総勢17,300人2800戸の藩士家族が移住した。しかし明治4年7月に廃藩置県が断行され立藩からわずか1年9か月の斗南藩であった。艱難辛苦、想像もできない悲しみと憎しみが交錯したことだろう。その間は耕作に適さない不毛の地で慣れない開墾で食糧不足で木の根や犬の肉をも食したという。さらに下北特有の猛烈な冬の嵐で押しつぶされ命を落とした家族も多い。廃藩置県の断行によって、藩主御一行は明治4年8月25日早朝、藩庁の円通寺を出立東京へ向かった。会津や仙台や東京に戻ったり、平民になったり、帰農したり、商人になったり、斗南を離れた人は8000人を超えたという。斗南に残った藩士家族は約50戸であったという。現在も末裔は誇り高く居住されている。時代に翻弄された会津藩士の人生は無念そのもの苦労の連続だったことは想像に難くない。
初日11時過ぎに最初の訪問地、三戸市の浄土宗『観福寺』に到着した。三戸移住の旧会津藩士大竹秀蔵が明治4年に『白虎隊供養碑』を建立した。明治14年頃の飯盛山より早い最初の碑であった。白虎隊士17名の名前が刻まれた碑に焼香したあと、住職が自ら説明してくださった。大変な生活を強いられた会津藩士に同じ日本人の同胞ではないかとの地元の声もあがっていたそうである。
さて、『観福寺』からは住宅街の細道を通り、12時に『悟真寺』につき『旧会津藩殉難者招魂碑』を見学、題字は松平容大、文は南摩綱紀(東京高等師範学校教授)と渡部(逓)次郎(三代目三戸小学校校長)である。『悟真寺』には会津藩家老の萱野権兵衛を慕う会津藩士によって位牌が安置されていた。権兵衛は新政府による制裁で主君をかばい会津藩の親戚である飯野藩保科家下屋敷で介錯自刃した。墓は白金の興禅寺と若松の天寧寺にある。
次に隣の『三戸大神宮』を訪ねた。十九代山崎宮司による個人経営で自由度を維持しているそうである。キャラクターにもなっている『みこ(三戸・巫女)にゃん』が11匹いるそうである。昔は蚕を狙う鼠を退治したそうである。ステンドグラスを多用し明治モダンの香りがする珍しい神社であった。TV『八重の桜』以降、他県からの旅行者も増えたそうである。ここには三戸へ移った日新館館長の杉原凱先生の墓を弟子達が境内に建立している。藩士は横迎町(むつ市)の立花屋文左衛門氏の倉庫を借り受け日新館を開校。遠隔の地には分局を設けて子弟の教育に力を入れた。町家にも勉学を呼びかけたことは特筆すべきであった。このようにして移住した会津藩士は日新館を軸として教育界に多大なる功績を残したのである。ここには会津藩士達を祀った墓所や無縁仏もある。
その後、昼食は八戸プラザホテルで市街を眼下に望みながら『せんべい汁定食』を楽しんだ。ホテルの会長によれば斗南藩士の神田小四郎の長男、神田重雄は八戸市初代議長を経て市長2代から4代までを歴任し、八戸漁港の近大化に尽力したという。会津藩士が移った八戸の舘鼻公園に銅像となっている。娘子隊で殉節の中野竹子の妹中野優子の墓もあるそうだ。会津からの我々はこの旧領地でも日野や松坂同様、時を越え歓迎されている事を実感した。
北上して三沢市『斗南藩記念観光村・先人館』で参加されていた宮城会津会の赤塚吉雄(高15回)氏に案内をしていただいた。ここに牧場を開墾した会津藩下級武士の廣澤安任は日新館から御茶ノ水昌平学を卒業して容保京都守護職の先回り調査を担っていた。後に新政府から大伝馬町牢屋に投獄になり、アーネスト佐藤が嘆願して救われた。その後廣澤が新宿角筈で日本で初めて牛乳を売るまでの牧場開墾の歴史、大久保利通が新政府への誘いに廣澤に会いに来た部屋の間、さらに長崎のような国際貿易港を陸奥湾大湊に開港するためこの三沢の辺りの太平洋から陸奥湾に通じる半島を横断する運河を掘る一大計画を示す地図が展示されていた。残念ながら予算不足の為計画で終わった。これが完工されていたら青森県が国際貿易港としてどう発展していたか、想像するだけで胸が躍る。
むつグランドホテルで開かれた夜の交流懇親会には斗南會津会の山本相談役、遠藤会長、坂本副会長、遠島事務局長の方々の参加で楽しい交流時間を共有できた。ご案内いただく訪問地に関する情報やむつ市作成の斗南藩の冊子、下北哀史のCDなどの資料をいただいた。
翌日は藩庁跡曹洞宗『円通寺』にて公務ご多用中の山本市長のご挨拶をいただいた。来年2024年は斗南藩155周年、むつ市と会津若松市の姉妹都市締結40周年を祝う行事が行われるそうである。様々な毎年の相互交流が長年に渡り続いている。円通寺の境内には会津藩士招魂碑がある、碑面は容大公の揮ごうで碑文は会津藩士南摩綱紀博士の撰による。容保は謹慎の身であったが明治4年3月斗南藩に鞍替えとなり函館、佐井を経て容大が待つ円通寺に7月に到着、親子初対面であったといわれ、廃藩置県で上京命令が出るまで親子水入らずの1か月を過ごした。斗南が丘として市街地が建設計画されていたが夢に終わった。会津人の先見の明と一徹なまでの姿勢は物心両面で残した功績は大きいと言われている。
隣の真宗大谷派『徳玄寺』は肉食妻帯と緩く、容大の遊び場になっていたという。重臣の会議場でもあった。ここにも萱野権兵衛を偲んで位牌が安置されている。広い墓地があり境内には51本の作品を残した名監督、地元生まれの川島雄三映画監督の墓がある。
斗南藩士となった会津藩士が上陸した記念碑を訪ねた。明治3年、新潟から海路で新政府借り上げのアメリカ蒸気船ヤンシー号に乗りここ大湊に上陸した。石碑は鶴ヶ城の石垣に使用されている慶山石を用い会津若松市を向いて建てられている。碑文の揮ごうは会津松平家第13代当主松平保定氏による。むつ市の「む」と「會」の字を両脇に堀り、むつの「ハマナス」と会津の「赤松」の植栽に囲まれている。ここまで斗南會津会の坂本副会長、遠島事務局長にご案内をただいた。
一路本州最北端の大間崎まで移動、津軽海峡の18キロ先には函館汐首岬を望む。一本釣りされた440キロのマグロのモニュメントは圧倒的な存在感がある。
ランチは長宝丸で分厚いマグロ丼をいただいた。店長の説明では釣り船は1億円を越えるそうである。若い漁師が満月の日に夜通し群れの先頭をソナーで狙う。小魚の盛り上がりもあり、群れの匂いがするそうだ。
大間町にある私設会津斗南藩資料館『向陽処』の館長で説明いただいた木村重忠氏は容保が京都守護職任命の際、随行した会津藩士木村重孝の曾孫に当たり4代目末裔で、元斗南会津会会長も務められた。斗南藩が飛び地になっているのは南部藩が会津藩の味方をした罰で取り上げられ斗南藩になったそうである。なんとも申し訳ない。貴重な資料の一つで容保公がこの地を去るにあたり容大公の御名で布告を出され、実物が展示されている。大意としては『東京に召喚され皆と苦労をともにできないのは耐え難いが、これまで幼齢でありながら重職を奉じることができたのは皆が苦難に耐え奮励したおかげだと喜んでいる。この先も身を削り心配いただいた天皇の限りない恩に報いることが私の望みである』と藩士に詫び、天皇を仰ぐ書翰である。また木村館長によると竜馬暗殺は江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説があるが佐々木只三郎説もあるとのこと。また容大公の陸路移動に牛を連れていた話も木村館長による。この後、霊場恐山を見学して八戸に戻った。
3日目には十和田市『澄月寺』を訪ねた。ここには戊辰戦争戦死者招魂碑があり、大義に殉じた家老や重臣、白虎隊員も含む約3000人を供養するものである。旧藩主容保による「今もなほしたう心は変わらねど,はたとせあまり世は過ぎにけり」の歌が刻まれている。
その後、青森市の『ねぶたの家ワ・ラッセ』でねぶたの実物に触れ、三角形が印象的な「青森県観光物産館アスパム」で食事、お土産を求め、その後、世界遺産である「三内丸山遺跡」を訪ねた。6500年前の縄文最大級の遺跡である。縄文早期の遺跡は東北に多いそうである。すでに栗の木の栽培をしており、クルミ、ウサギ、シカ、イノシシ、クマの骨が水没して残り、魚の骨、アサリ、ハマグリ、シジミなどの海の物も残っている。ごみの廃棄日が定められ社会性が見られる。墓もまとめて作られ病気感染を防いでいた。
新青森駅から16時17分発の新幹線に乗り帰路に就いた。斗南藩主・斗南藩士の足跡の詳しい事実が分かり、今も会津との絆が強い斗南の旅であった。
斉藤 仁(高20回)