令和4年度在京会高同窓会 記念講演
「関東大震災から100年:国難災害に対する最重要課題とその改善へのヒント」
目黒公郎 (東京大学教授、高校33回卒)
      < 目  次 >
1.大正関東地震と関東大震災
2.関東大震災が我が国に与えた影響
3.今後直面する国難(級)災害とその理由
4.過去に起こった国難級災害
(1) 諸外国での例
(2) 我が国における例
5.我が国と首都圏の人口の変化
6.明治維新で大きく変わったこと
(1)参勤交代の真の意味
(2)明治政府の人材登用
(3)首都圏への人材集中の実態
(4)首都圏への人口や機能の集中が持つ意味
(5)首都圏への極度の集中をどう緩和するか
7.おわりに

1.大正関東地震と関東大震災

 今年、2023年は1923年9月1日に相模トラフ(図1)を震源として発生したM8クラスの大正関東地震からちょうど100年である。この地震が引き起こした甚大な被害の総称を関東大震災と呼ぶが、その具体的な被害や影響は、構造物被害や延焼火災、流言飛語の問題などを中心として語られることが多い。全潰(倒壊や崩壊の意味)建物が約11万棟、全焼が21万2千余棟に達した。死者・行方不明者は約10万5千人、その87.1%(約9万2千人)が焼死者、地域としては東京府(66.8%)と神奈川県(31.2%)で全体の98%を占めた。

 激しい地震動が南関東の広域を襲い、神奈川県を中心に、建物の倒壊の他、液状化による地盤沈下、崖崩れや地滑り、沿岸部では津波(静岡県熱海で12m。千葉県館山で9.3m、鎌倉由比ヶ浜で9m、洲崎で8m、逗子、鎌倉、藤沢の沿岸で5~7m、神奈川県三浦で6mなど)による被害が発生した。結果として、建物被害による死者・行方不明者は1万1千余人に上り、これは阪神・淡路大震災の建物被害の犠牲者の2倍を超えた。さらに津波による死者・行方不明者は200~300人であり、これは1993年北海道南西沖地震による津波の犠牲者よりも多い。土砂災害も各地で発生し、700~800人の死者・行方不明者が出ている。とくに小田原の根府川駅での列車転落事故では、山津波(土砂崩れ)によって列車が海中に没し、そこに津波が押し寄せ100人を超える犠牲者を出した。

 関東大震災の被害額には様々な推定があるが、その額は概ね約45億円~65億円である。これは、当時の我が国の名目GNP(約152億円)の30~44%、一般会計歳出(約15億円、軍事費約5億円を含む)の約3~4.3倍に相当する。単純比較は難しいが、現在の一般会計歳出が約107兆円(2022年度)、GDP(2021年度)が545兆円であることを考えれば、関東大震災のインパクトは現在の我が国にとっては、150兆円~460兆円相当であったと言える。

 ところで、図1は木造建物の全潰率を基に評価された震度分布であり1)、長周期地震動は含まれていない。しかし、最近の研究成果からは、南関東地域では4秒から10秒の長周期地震動が誘発されることがわかってきた。関東大震災の当時には、この程度の固有周期を持つ構造物や施設はなかったので、大きな問題は顕在化しなかった。しかし、この周期帯は、現在、首都圏に多数存在する30階建以上の高層ビルや長大橋の固有周期、大型タンク内の液体のスロッシング周期と一致することから、注意が必要である。また、100年前に大規模な土砂災害が広域に発生した丘陵部や山間部には、当時は住民も施設も少なかったが、現在ではこれらの地域は大勢の人々が住む市街地になっている点も要注意である。

 しかし、関東大震災から我が国が受けた影響や教訓は、上述のような議論だけで十分なのだろうか。この後の私の話では、この震災が発生した時代背景やその後の我が国の歩みを俯瞰した上で、関東大震災が我が国に与えた重大な影響について考察するとともに、今後わが国を襲う可能性の高い巨大災害に対する最重要課題を指摘し、それを改善する考え方を述べてみたい。

2.関東大震災が我が国に与えた影響

 関東大震災の後には、甚大な被害を受けた首都圏の復旧や復興には強いリーダシップや統率が必要になった。震災直後、政府は、緊急勅令によるモラトリアムを実施して震災手形を発行するとともに、この手形の割引損失補償令を公布した。震災手形による損失を政府が補償する体制を整備したわけだが、この手形が1927年に不良債権化し、金融恐慌を招き昭和恐慌へとつながる。またこの時期は、関東大震災のみならず、国内の他の地域でも地震災害が多発(1925年北但馬地震、27年北丹後地震、30年北伊豆地震、33年昭和三陸地震)した。また、1925年の治安維持法の制定、27年金融恐慌、31年満州事変、32年には「5・15事件」が起きた。そして我が国は、33年の国際連盟脱退、36年「2・26事件」、37年日中戦争、41年の太平洋戦争へと向かった。

 大正時代は、政治的には、明治時代の元老を中心とした藩閥主義を脱して、政党政治に移行しようとしていた時代である。経済や社会活動においても、第一次世界大戦による経済好況やその後の戦後不況、護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、部落解放運動などが活発に行われた。市民の生活においても、洋食・洋服や文化住宅など、西洋式の衣食住が広がるとともに、芸術や大衆文化、新聞やラジオ、路面電車や乗合バス、そして家庭電化製品など、都市の文化も形成された。いわゆる「大正デモクラシー」であるが、関東大震災は、この自由な雰囲気を一気に変え、わずか22年後には民間人を含め300万人を優に超える死者を出す第2次世界大戦の敗戦への転換点になった。

 図2に示すように、大正関東地震は明治維新から現在までの時間(156年間)の前半の1/3の時点で発生し、22年後の第2次世界大戦の敗戦がちょうど中間年になる。その後の我が国が、この2つの出来事から多大な影響を受けたことは言うまでもないが、その大本は関東大震災である。

3.今後直面する国難(級)災害とその理由

 2011年に発生した東日本大震災は、私たちが開発してきた都市や地域が、平時の効率性とは裏腹に災害脆弱性を増大させることを露わにした。21世紀の半ばまでに発生する危険性が指摘される首都直下地震や南海トラフ沿いの巨大地震(東海・東南海・南海地震やこれらの連動地震)は、東日本大震災と比較して、はるかに大きな被害を及ぼす可能性が高い。理由は、南海トラフ沿いの巨大地震は東北地方太平洋沖地震に比べて震源域が陸地に近いこと、太平洋岸の大都市群が災害危険度の高い低平地に立地していること、さらに首都圏では、脆弱な木造家屋が密集した地域が多く、これらの地域は揺れによる被害とその後の延焼火災の危険性が高いこと、湾岸地域では液状化現象が発生する危険性が高いうえに、長周期地震動の影響を受けやすい石油コンビナートをはじめとする各種プラントや火力発電所などが林立していること、などである。

 このような状況を背景に、政府中央防災会議は、首都直下地震では被害総額約95 兆円、避難者数700万人、死者数2.3万人、南海トラフ巨大地震では被害総額約220兆円、避難者数430万人、死者数32万人になると試算している2), 3)。しかし、これらの被害想定は発災から数日後までの被害、すなわち津波や延焼火災までを対象としたものである。そこで土木学会は、2018年に20年間の長期的な経済損失を試算したが、その被害総額は首都直下地震で855兆円、南海トラフ巨大地震で1,541兆円と、国の存続が危ぶまれる「国難(級)災害」の規模になる4)

4.過去に起こった国難級災害

(1) 諸外国での例

 国の存続さえも難しくなる「国難級災害」として有名な事例をいくつか紹介する。

 ヨーロッパでは、1755年のリスボン地震がある。この地震はポルトガルの首都リスボンの沖合300キロで発生したM8.5~9の巨大地震である。まず最初に激しい地震動がリスボン市を襲った。この揺れによって、リスボン市内の建物には健全なものが1棟もないと言われるほどの被害を受けた。さらにその後に襲った巨大な津波と延焼火災で、リスボン市の人口の1/3以上の死者が発生し、直後被害のみでポルトガルのGDPの1.5倍以上を失った。この被害により、海運や植民地政策で世界をリードしてきたポルトガルは一気に国力を失い、かつての輝きを完全に失った。

 アジアでは1970年に、当時、インドを挟んで、西と東に分かれていたパキスタンの東パキスタン、今のバングラデシュをベンガル湾から高潮を伴う巨大サイクロンが襲った例がある。このサイクロンをボーラサイクロンというが、この災害による死者は最大50万人に達したと言われ、これは20世紀以降で1回の自然災害で最大の死者数を出した災害になっている。この状況を受け、東パキスタンは西パキスタンに支援を求めるが、これが不十分であると反発し、それがその後の独立運動の一因になった。

(2) 我が国における例

 我が国においては、江戸幕府の末期、安政年間に国難級災害が発生している。しかし、我が国では、これが一般に知られていない。日本史の中で子供たちに教えていないからだ。私も子供の時には全く知らなかった。図3に示すように、1853年からの10年程度の期間に繰り返して発生した自然災害とパンデミックによって、幕府は財力と求心力を大きく失ったことが、その後の幕府の終焉に大きな影響を及ぼしたのである。1853年の旧暦の2月2日に嘉永の小田原地震が発生し、小田原城の天守閣が大破する。その4か月後の6月3日にマシュー・ペリーが黒船4隻で浦賀にやってきて、幕府に開国を求める。これは日本史でも教えてくれる。開国したくない幕府の曖昧な態度に対し、ペリーは1年後にまた来るので、それまでに結論を出して置くようにと言って、帰っていく。しかしペリーは1年度ではなく、半年後の1854年の旧暦の1月に日本にやってきて、再度開国を迫る。これに抗しきれずに3月に結んだのが「日米和親条約」である。この年の旧暦の11月4日と5日の2日間にわたって、関東から九州に至る我が国の太平洋ベルト地帯が2発の巨大地震(安政の東海地震と南海地震)に襲われた。両者のマグニチュードはいずれも8.4、その間隔はわずか31時間であった。この2つの巨大地震により、太平洋ベルト地帯は激しい地震動と巨大な津波に襲われ、壊滅的な被害を受ける。当時の我が国の総人口は約3,300万人、さらにこの地域の人口は現在に比べてはるかに少数であったが、3万人を超える人々が亡くなった。

 この2連発の巨大地震から1年もしない翌1855年の旧暦の10月2日にM7クラスの地震が江戸を襲う。安政の江戸地震と呼ばれる首都直下地震であり、江戸で1万人の死者が出た。幕府は諸施設が被害を受けたので、その復旧・復興の支援を諸藩に求めるが、諸藩も130を超える江戸屋敷で死者が出るほどの被害が出ているので、幕府の要望に簡単に応えることは難しい。ましてや、太平洋ベルト地帯の藩では、前年に甚大な地震被害を受けているのでなおさらである。

 その1年もしない1856年の旧暦の8月25日に、今度は高潮を伴う巨大台風が江戸湾を襲う。安政の江戸暴風雨である。これによって10万人の死者が発生したが、これはわが国における最大の風水害である。風水害で10万人もの死者が発生すると、次には感染症が発生するのが常であるが、この台風の2年度には通常の感染症に加え、コレラが猛威を振るった。1858(安政5)年に、長崎に入港したアメリカ軍艦の乗組員から伝播したコレラが、関西から東海道を経て旧暦の7月には江戸に至り、8月には大流行した。治療法もなく3日コロリと呼ばれ、即死病として恐れられた。1858年の夏には、江戸だけで3万人から10万人がコレラで死亡する。これを安政のパンデミックと呼ぶが、この年の6月がタウンゼント・ハリスを米国代表として「日米修好通商条約」を締結したタイミングである。ワクチンもない時代なので、コレラはずっと流行するが、1862年にはこれにさらに麻疹(はしか)が加わり、江戸だけで20万人以上ともいわれる人が死亡する。1853年から1862年までのわずか10年の間に、地震や台風などの自然災害が多発すとともにパンデミックまで発生したのだ。幕府は、このような状況の中で諸外国との対応を強いられていたということ。財政的にも諸藩からの求心力も大きく失う状況があったことがわかる。

 明治維新は地方の藩の下級武士(維新の志士たち)が先見の明があって、悪い幕府を倒し、新しい時代として明治維新を達成したように子供に教えるが、これは正しくない部分が多い。実際はイギリスの東アジア政策の影響を大きく受けている。また、日米和親条約に加え日米修好通商条約を締結した米国が、当時、日本に対して最も有利な立場を有していた。しかし、日米修好通商条約の締結の後は、幕府が終焉を迎える大政奉還(1867年)までは、米国は日本への積極的な働きかけを停止している。なぜか? 1861年から65年まで、米国は自国内で南北戦争をしていたからである。その米国の留守の間に、イギリスが勢力を拡大し、倒幕派の諸藩に近づき、知恵と財政的な支援を行った。その中心人物の1人が1859年に来日したトーマス・ブレーク・グラバー(長崎のグラバー邸の主)である。グラバーは生糸やお茶の商人として訪日しているが、その実態は武器商人で、討幕派にも佐幕派にも、幕府にも武器を大量に売っている。土佐の脱藩浪士の坂本龍馬に知恵を与え、活動の多ための旅費や武器の購入費、さらには軍艦を購入する資金などを工面し、龍馬の活動をサポートした人物である。近年、彼の屋敷(グラバー邸)からは龍馬をかくまった屋根裏部屋が発見されている。1865年に南北戦争が終わった米国は、無用の長物となった大量の小銃(鉄砲)を日本に持ち込んで売りつけた。我が国は、新政府も旧幕府側もそれらを大枚をはたいて購入し、戊辰戦争ではこれらを使って日本人どうして殺し合いをした。

 また、不平等条約であった日米和親条約や日米修好通商条約の改正のために、明治政府は鹿鳴館を建設して近代国家をアピールしなくてはいけなかったとか、陸奥宗光や小村寿太郎らの長年にわたる努力が必要だったなどと子供の時に教わった私は、これらの条約が本当に悪い条約であったと思っていた。しかし、これらの条約に関しても別の解釈が可能だ。これらを米国と締結していたことで、イギリスが他のアジア諸国に実施したような非人道的な扱いをされないための歯止めになったということである。しかし、明治政府が、「幕府が締結した条約によって、わが国が守られた」などと言うはずがない。歴史は常に勝者の都合のいい記録でしかないからだ。関税自主権がないという話も正しく理解されていない。米国が他国と結んだ同様の条約での関税率は、インドには2%、中国には5%しか認めていないが、我が国には20%を認めていたし、5年度の見直しも条項に入っていた。これらがその後、日本にとって厳しくなってしまう背景には、締結後の薩摩藩による生麦事件(1862年の旧暦8月)や、長州藩による馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国(アメリカ・フランス・オランダ)艦船に対する無通告での砲撃(1863年の旧暦5月)などがある。

 歴史は、様々な方向から学ぶことが重要である。

5.我が国と首都圏の人口の変化

 図4に我が国の人口の変化を示す。江戸幕府が開設された1600年代の初め、我が国の人口は約1,230万人であった。これが1700年の初めに約3,000万人まで増加し、その後はほぼ一定で推移し、明治維新(1868年、明治元年)年の時点では約3,300万人である。その後、我が国の人口は急激に増加し、2010年にピークを迎え1億2,800万人になり、その後は減少に転じている。


 明治維新の前年に大政奉還がなされ、各藩の江戸屋敷に勤めていた武士たちは地元に戻ったので、幕末に120~130万人であった江戸(東京)の人口は67万人に減った。これが明治維新の時点での東京の人口である。その後の人口の変化は表1に示す通りである。全国的な一律の人口調査が初めて行われた明治6(1873)年を基準に、平成27(2015)年と比較した日本全体の人口増加率は3.84倍であるが、首都圏(1都3県:東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)の平均人口増加率は13.27倍である。特に、東京、神奈川、埼玉の人口増加率は17倍を超えている。関東大震災直前と比較すると、全国平均の1.73倍に対して、1都3県の平均は2.96倍、とくに東京の増加倍率は5.11倍と大幅に増加していることがわかる。

6.明治維新で大きく変わったこと

 江戸幕府が滅び、明治政府が生まれてことで、わが国の様々な状況が大きく変わった。その中でも、私は明治政府による地方からの人材登用の功罪について指摘したい。

(1)参勤交代の真の意味

 約270年間続いた江戸幕府の時代、日本には約300の藩が存在し、地方の藩であっても、有名な藩校があり高度な教育を実施し人材を育成していた。今日では、地方は衰退し、人材教育も難しくなっているが、なぜ当時はそれができていたのだろうか。私は次の2つが大きなポイントであったと考えている。1つは基本的に人々(特に武士)がいずれかの藩に所属し、簡単に他の地域に居住地を移すことはできなかったこと(脱藩は大罪)、そしてもうひとつは参勤交代である。参勤交代は、3代将軍徳川家光が寛永12(1635)年に制定した武家諸法度(寛永令)で制度化したもので、諸大名は1年おきに自分の領地と江戸を行き来しなければならず(関東の大名は半年おき)、妻子(正室と世継ぎ)は人質として、江戸(江戸屋敷にて)で生活をしなければならないというものである。これに要する費用は各大名が負担する決まりであったので、「各藩の経済状況を弱めることができ、謀反を防ぐことができた」といわれている。少なくとも私は、小学校や中学校では、そのように教えられた。

 しかし、その後、自分なりに色々と調べると様々な疑問が出てきた。例えば、江戸幕府の評定所が編集した幕府の法令集として、「御触書集成」がある。8代将軍吉宗が、元和元(1615)年以後の幕府法令の編集を評定所に命じ、寛保4(1744)年に完成した「御触書集成(寛保集成)」には、「従来の員数近来甚だ多し。且つは国郡の費、且つは人民の労なり。向後その相応を以てこれを減少すべし。(訳:従者の人数が最近大変多いようだ。これは一つには、領国支配のうえで無駄であり、また一方で、領民の負担となる。以後は、身分に応じて人数を減じなさい。)」の記載がある。これからわかることは、参勤交代が定められた後のかなり早い段階で、「各藩の経済状況を弱める」ことは主目的ではなくなり、江戸幕府への軍役奉仕の意味が強かったと考えられる。しかし、このような意味以上に、参勤交代は実は我が国の国土の運営上、とても重要な2つの貢献をしていたと私は考えている。一つ目は国土全体のインフラの整備を大きく促進させた効果である。参勤交代によって、街道や宿場が整備され、物流や経済の活性化に大きく貢献し、我が国のGDPが大きく増加した。もう一つは人材育成に与えた大きな効果である。各藩の最も優秀な人材(大名の近くにいる選ばれた人材)が、日本で最も文化や技術の進んだ江戸を定期的に見聞するとともに、同じように江戸に来ていた他藩の優秀な人材と人的交流を持つ機会を与えたことである。一方で参勤交代に参加する人々は全て藩に所属し、江戸住まいの人を除き、基本的に子供は地元の藩で育てた。これが、地方であっても、優れた人材を教育する藩校が成立した理由である。また、特に優秀な者に対しては、江戸でつくったネットワークを用いて、藩校間で留学させることもできた。

(2)明治政府の人材登用

 明治維新以降の我が国は驚異的な速さで発展するが、その背景には明治政府による地方からの人材登用がある。江戸時代に各地で育成された日本中の優秀な人材を東京に集め、高給で招聘した外国人教師に学ばせ、海外留学もさせ、帰国後には重要なポストにつけた。明治維新からわずか30年後の1900年前後には、学術的には世界の最先端に追いつくという世界の奇跡を生んだ。推薦者の必要なノーベル賞の受賞は湯川秀樹まで待つことになるが、図5を見れば、その業績が驚異的なものであり、ここに東京出身者がほとんどいないことから、地方の優秀な人材が東京に集められ、大きな成果を挙げていたことがわかる。明治期の諸学会の会長を調べても、ほとんどの学会の歴代会長は地方の出身である。政治においては、薩長土肥に偏る傾向があるが、軍事や経済などを含め、日本の中枢は地方の優秀な人材を登用することで成立していた。

 図5の中に私たちの郷土の偉人である山川健次郎先生も入っている。山川先生は日新館に学び、白虎隊士でもあった。東京帝国大学総長を2回、さらに京都帝国大学総長、九州帝国大学総長などを務めた山川健次郎先生が、このような業績を挙げることができたのはなぜか?戊申戦争に敗れた会津藩は石高を大幅に減らして斗南藩に移ることになった。会津の将来は次世代の若者に託すしかなかったが、会津の若者を環境が整った中で学ばせることは困難であった。そこで、会津藩の重臣であった秋月悌次郎が行ったことは、会津で最も優秀な2人の少年を旧知の友人である長州藩士に託すことだった(図6)この2人の少年の1人が後の山川先生である。秋月の申し出を受け、2人の少年を書生として受け入れ、勉強できる環境を用意してくれたのが長州藩士は奥平兼輔である。奥平自身は後に前原一誠らと「萩の乱」を起こし、捉えられて36歳で処刑されるが、奥平のお陰で2人の少年の1人は研究者、1人は軍人として成長する。

 私は会津人の郷土を愛し、友人を大切にするところが大好きだ。しかし、「いまだに戊辰戦争でいじめられたとか、薩長は嫌いだ」などと言い続けている人が少なからずいることにはいつも辟易する。国際社会の中で、ある時期にいじめられたと言い続けていて、周りから尊敬されている国や地域があるだろうか。当時厳しい状況を強いられた祖先たちであったとしも、自分の5世代も後の子孫たちが、いまだに「いじめられた、いじめられた」と言っている状況を潔しとするだろうか。「歴史は踏まえるものであるが、引きずるものではない。」ことを会津人は肝に銘じるべきだ

 明治政府が地方の優秀な人材の登用によって、日本の中枢を構成し驚異の発展を実現したという話をしたが、その一方で、明治政府の問題は、このように地方から吸い上げた優秀な人材を地方に再分配する仕組みを用意できなかったことである。これがその後の地方の地盤沈下(衰退)の本質的な原因であると私は考えている。この傾向は現在まで続いているが、昭和30年代までは「長男は家督を継ぐために家に残る」、40年代までは「娘はあまり遠くに行かず、家から通える学校に行って、地域に嫁ぐ」という地方の一般的な風習や親の考えから、一定の歯止めになっていたが、これもその後は薄れていった。

 明治維新の時点でわずか67万人になった東京に、図7に示すように、日本中から優秀な人材と東京の活動を支える単純労働力を含めた多くの人材が流入した。比率は多少低いとは言え、単純労働力の担い手も同時に流入したので、平均値の変化は大きくなかった可能性があるが、あるレベル以上の人材の総数は地方に比べて大幅に増強された。特殊な事情によって特定地域への人材の流入があった場合に、対象地域の学術レベルが極端に変化する例は時々発生する。例えば、優秀な人材が多く勤めている会社の家族向けの宿舎ができたりすると、その地域の小学校の子供たちの成績が急に上昇したりする例である。少し大きな地域を対象としたものでは、ある時期の筑波学園都市周辺でも似たような現象があった。この場合は、図8に示すように東京(首都圏)への人口流入と違い、単純労働力の流入は少なく研究者を中心とした人材の流入となる。小学校のクラスで、両親の博士の学位取得者の比率が異常に高くなったり、子供たちの成績が異常に高くなったりする事例である。

(3)首都圏への人材集中の実態

 首都圏の難関大学への地方の高校からの入学者が減ってきたといわれて久しい。実際、首都圏の高校からの入学者の占める割合が高まっている。そこで、首都圏の難関大学の代表として東京大学を取り上げ、どこの出身者が多いのかを調査してみた。東京大学に2018年に入学した新入生の親の住所(高校の所在地ではない)を調査した結果5)図9に示す。図9(a)が北海道から九州までの各地域の人口と全国の人口に占める割合、図9(b)が東京大学の新入生の親の住所の割合である。両者を比較して、全国の人口に対する各地域の人口比と東京大学の全新入生に占める各地域からの新入生の比を比較して正規化したものが図9(c)であるが、1を越えているのは首都圏のみである。特に特に東京都からの東京大学への新入生は、人口当たり3倍以上であることがわかる。これは極端な事例だと思う人がいるかもしれないので、もう少し一般的な調査結果も紹介する。


 全国の各都道府県から全国のどこの大学へ何人進学したのかを表したデータがある。その中で国公立大学に進学した者を対象に、どの程度の偏差値の大学に進学したのかを、偏差値ごとに分けて集計すると、全国的には、偏差値65以上の大学へ進学者した者(Aグループ)の割合は12.9%、55~65(同様にB)が31.0%、45~55(C)が53.3%、35~45(D)が2.7%、35以下(E)は0.1%となっている(図10(a))。これを都道府県別に分けて、偏差値が55以上(A+B)の大学に進学した者の割合を求め、その値の大きい順に並べたものが図10(b)である。この値が最も高いのは東京で84.1%、次が神奈川県で81.3%、これ以降は70%台以下になる。比率としては、20%台が最も多く17県であり、最下位は岩手県で18.7%である。福島県は27.2%で47都道府県中35位である。明治維新で多くの人材を輩出した薩長土肥は、鹿児島県が32位(28.8%)、山口県が38位(26.4%)、熊本県が39位(25.6%)、高知県が42位(24.7%)である。人材流出の状況は明白である。

 人材の偏在化が起こっていることは明らかであるが、その一方で、難関大学に首都圏から多くの新入生が入るのは、首都圏には入試に有利な教育プログラムをもつ中高一貫校が多く存在するからだという話も聞く。また、日本学生支援機構6)が2018年に発表した「学生生活調査」によると、大学生がいる家庭の平均世帯年収が、国立で841万円、公立730万円、私立834万円となっている中で、東大生の家庭の平均世帯年収は918万円(2017年)と高い5)

 以上のことから、「経済的に恵まれた家庭に生まれ、環境の整った学校に通える者でないと難関大学には入りにくい」という指摘があるが、皆様はどう思われるだろうか。一部には指摘されるような事例もあるだろうが、本質的な部分における私の理解は、上記のような指摘とは異なっている。明治維新から156年(世代でいうと約5世代)が経過し、地方から優秀な人材が首都圏に流入し、そこに定住する状況(優秀な人材の地方への再配分の仕組みが弱い)が継続した結果であるということ。図7にも示したように、首都圏におけるあるレベル以上の人材の量は他地域に比べて圧倒的に多い。なので、伝統がなくても入試に有利な教育プログラムを有する中高一貫校をつくれば、そこに優秀な生徒が入ってくるので、多数が難関大学に進学する。現状では、地方で同様な学校をつくったところで、同様な成果を達成することは難しい。首都圏に比べて人材が少ないからであり、全国区で生徒を集める仕組みがない限り、これは無理と言える。

 ところで、一般的に優秀な人たちは収入の高い職業につきやすいので、平均収入も高くなる。知能指数や運動能力などは、親子の間で遺伝しやすいことが知られているので、一定レベル以上の学力を有する子供が、首都圏には多く存在することになり、結果として、難関大学に多く進むことになる。入試に有利な教育プログラムをもつ中高一貫校の影響は副次的と考えられるし、東大生の親の収入が高いのも統計的には必然だということである。

(4)首都圏への人口や機能の集中が持つ意味

 首都圏への人口や機能の集中に対して、その原因や理由を尋ねると、多くの皆さんは、「効率がいいから」とおっしゃる。しかし、これは本当だろうか。私はこの考えは近視眼的な評価であって、俯瞰した視点からは間違っていると思っている。私たちは物事の評価や対処法を考えたりする場合には、常に時間と空間を測る長さの異なる2本の物差しを持つことが重要だ。長い時間と大きな空間を評価し、全体最適を目指すための物差しと、短い時間と狭い空間を対象に、局所最適解を目指す物差しである。この両方がないと、本来の理想に沿った現実的な解決策を提案しつづけることは不可能だ。

 天然資源に乏しいわが国において、最も重要な資源は人材であり、これを最大限有効活用することが、我が国にとって大切なことは誰もが納得することであろう。首都圏には優秀な人材が集中していることはすでに何度も指摘したし、この人たちのお陰でわが国の中枢機能が保たれている事実もある。しかし、図11にも示すように、特に優秀な人材と一緒に働いている次に優秀な人材は、持ち合わせている能力を十分に発揮する場や必要性が限定される。この人たちが、広く全国に分布すれば、首都圏にそのまま存続する以上に、持っている能力を発揮できる環境が整う。言い換えると、現在の我が国は、最も重要な資源である人材を首都圏に集中させることで、無駄遣いする状況をつくっているということだ。この状態は、長期的には決して「効果的」な状態ではないし、人口や機能の集中は感染症や災害に対してはエクスポジャー(暴露する量)を増やすことで、被害を拡大させる要因になっている。首都圏への1極集中は、首都直下地震との関係で言えば、まとめて人材と機能、そして財産を失うということ、南海トラフの巨大地震に関して言えば、直後の災害対応から復旧・復興時に活躍しなければならない人材が各地で不足するということである。

 昭和から平成に移行する1988年から1989年にかけて、竹下登首相が全国の各市町村の地域活性のための「ふるさと創生事業」を行い、使途を問わない1億円を全市町村に配布したことをご記憶だろうか。金額が中途半端なこともあるが、この資金をその後の地域の活性化に効果的に活用した事例を私はあまり聞いた記憶がない。その一方で、そのお金をどう使えばいいのかの知恵がなく、そのお金を使ってコンサルタントに依頼した話や、あまり意味のないモニュメントをつくったという話はよく聞いた。地方が活性化しない理由として資金不足を指摘する声が多いが、私は人材不足がより深刻であると考える。資金を生み出したり、有効に使うことのできる人材の確保がより問題だということ。現在では、様々な分野で海外からの労働力を期待する状況になっているが、これは、明治維新から150年以上が経過し、地方が労働力を供給する体力を失っていることを表している。また最近では、一部の国家や自治体のトップが、「○○ファースト」を標榜するが、これは本質的に成立しない。○○をサポートする周辺組織があって初めて○○が成立していることに対する自覚がなさすぎる。自分が政治家として、そのポストにいる任期程度の時間スケールしか考えていないのかもしれないが、○○ファーストを進める結果として、その後の周辺組織との関係は確実に悪化することを認識すべきだ。

(5)首都圏への極度の集中をどう緩和するか

 これまでに延べてきたように、現在、我が国が抱える様々な課題に関して、その本質的な原因や解決のためのポイントのほとんどに、人材と機能や財産の首都圏への極度の集中が深く関わっていると私は考えている。

 では、この状況をどのように是正していけばいいのだろうか。まずこの状況の是正を強く促す外圧としては、大災害やCOVID-19などの疫病がある。もう一つは、少子高齢人口減少や財政的な制約の中で、従来型の巨大インフラ整備に依存した大都市や国土の運営に限界がきていること、エネルギー効率や環境負荷などを考えたうえで、適切なサイズの分散型都市を志向しないと社会が成立しない見通しであること、などがあげられる。

 一方で、これらの課題の是正を支援するものとしては、特定地域に物理的に集中して存在しなくても、就業が成り立つICT、IOT、DX技術などによる環境改善がある。COVID-19の経験を踏まえ、最近では、いつでもどこからでも仕事が可能であるというWAA(Work from Anywhere and Anytime)という考え方や、生活スタイルもかなり進んできた。しかし、これは親たち(大人たち)の生活スタイルであって、子供の教育は依然として問題である。すなわち、親は首都圏を離れて地方に行っても仕事や生活は成立するが、そこで子供たちが首都圏と同レベルの教育を受けられるかという問題である。しかし、ここでいう教育は大学受験時に首都圏の子供と比較して不利にならないかという意味合いが強く、情操教育とか生きる上で必要な人間力をつけると言った意味での教育ではない。であれば、解決の糸口の一つとしては、入試改革が挙げられる。現在の我が国の大学のように、入学時に高いハードルを課すが、入学後は特に勉強せずとも、入学時の学力も維持できていないような状況でも何とか卒業できてしまう大学ではなく、入学時のハードルは一定レベル下げて、多様な人材を少し多めに入学させる。その上で、入学後には一生懸命勉強しないと卒業できない大学とする。そうすれば、地方で育った子供たちも大きなハンデなく大学に入学でき、その後の勉強においては地方で育った経験も大いに役立つだろう。また、数年間という時間を与えて鍛えれば、都会で育った子供たちに十分追いつき追い越して、立派な成果を挙げることができるだろう。そのためには、卒業生を迎い入れる社会や企業も、従来のように「入社後に教育し直すから、大学時代に学んだ知識や体験は特に期待していない。求めているのが一定レベルの大学に入学したという潜在的な能力だけ」などと言って、学生がモラトリアムとして学生時代を過ごすことを肯定するような姿勢は是正すべきである。

 そして、最後は、国土運営政策の大変革(例えば、道州制的国土運営など)であろう。私は、地方への人材の再分配法を考えるために、自分の先輩や友人、後輩や教え子などの中で、故郷が好きで、首都圏ではない地域に就職した人たちに、その動機を聞いているが、その結果わかった興味深いことがある。それは優秀な人材で地方に就職した人の就職先として特徴的だったのは、○○電力、JR○○、NTT○○、NEXCO○○など、エリアとしては都道府県のサイズではなく、道州制のサイズであるということ。これは、学生時代に一緒に勉強していた友人の多くが、上級国家公務員として国を動かしたり、一部上場会社に就職して出世し大きな仕事をしたり、ベンチャー企業を立ち上げて活躍するような中で、都道府県単位では仕事の大きさ(規模や予算額)や影響度、自己満足感などに差があるからのようだ。一概には言えないが、予算や売り上げ規模でいうと数兆円以上、影響人口で言えば1,000万人などの規模になり、これが道州制のサイズと一致する。私自身は道州制の議論が盛んであったころ、あまり興味をもってこれをウォッチしていなかった。しかし今は、明治維新から150年ぶりに人材を地方に再配分する意味において、道州制は議論に値すると考えている。道州制のサイズは大規模災害への対策や対応を考えるうえでも、有利な空間単位にもなっている。もちろん、道州制が成立すれば、現在の都道府県のプレゼンスは低下するであろうことは、認識しておかなくてはいけない。

7.おわりに

 この度、2023年度在京会津高校同窓会の総会にて、話題提供する機会を頂いた。今年が1923年に発生した関東大震災から100年目であることを踏まえ、まず、関東大震災が発生した時代背景やその後の我が国の歩みを俯瞰した上で、関東大震災が我が国に与えた影響について考察した。次に、今後わが国を襲う可能性の高い巨大災害に対する最重要課題を指摘し、それを改善する私なりの考えについて述べさせていただいた。一般的に言われていることではないことについては、論拠を合わせて紹介させていただいた。

 結論から言うと、現在の我が国が抱える様々な問題の多くの原因には首都圏への人口と機能や財産の極度な一極集中がある。多くの人々はこの状況が効率的と思っているが、これは間違いで、我が国で最も重要な資源である人材を無駄遣いする状況をつくっている。また、人口や機能の集中は、感染症や災害に対しては脆弱性を高めている。首都圏への1極集中は、首都直下地震との関係で言えば、まとめて人材と機能、そして財産を失うということ、南海トラフの巨大地震に関して言えば、直後の災害対応から復旧・復興時に活躍しなければならない人材が各地で不足するということである。 さらに、もう1点付け加えると、優秀な人材を最も集めた首都圏において、出生率が最も低い状況を作っている点にも注意を払うべきだ。子供を持つか否かは両親の自由である。しかし、2021年の合計特殊出生率(女性1人が一生で出産する子供の平均数)を見ると、全国平均が1.30であるのに対して、都道府県別では、東京がダントツの最下位47位で1.08、千葉44位(1.21)、神奈川と埼玉が共に40位(1.22)である。かつての日本社会は、優秀な女性たちを家事に専従させ、直接的にはGDPに貢献しない状況をつくっていた。しかし、もはやそんな時代ではないし、女性に社会で働いてもらわない限りGDPの成長も望めない。私自身は、人材の再分配が上記の問題に対しても、大きな効果があると考えている。

 以上で、私の雑駁な話を終了しますが、本日の私の講演が防災のみならず、我が国の今後の様々な社会問題の改善に少しでも役立てば幸いです。ご清聴ありがとうございました。

参考文献
1) 諸井孝文、武村雅之:関東地震(1923年9月1日)による木造住家被害データの整理と震度分布の推定、日本地震工学会論文集、第2巻、第3号,pp. 35-71, 2002.
2)中央防災会議 首都直下地震対策検討ワーキンググループ:首都直下地震の被害想定と対策について (最終報告),平成25年12月.
3)中央防災会議 南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ:南海トラフ巨大地震対策について(最終報告),平成25年5月.
4)土木学会:「国難」をもたらす巨大災害対策についての技術検討報告書,2018年6月.
5) 東京大学:学生生活実態調査、2018年
6)日本学生支援機構:学生生活調査、2018年、https://www.jasso.go.jp/about/statistics/gakusei_chosa/index.html

プロフィール:
目黒公郎(高校33回卒)
1991年東京大学大学院博士課程修了、その後、助手、助教授を経て、2004年に教授。
現在は東京大学教授、大学院情報学環総合防災情報研究センター長。
放送大学、国連大学、東工大、東北大学などの客員教授、内閣府本府参与、日本地震工学会会長、日本自然災害学会、地域安全学会などの会長を歴任。