【同窓会会報の巻頭に掲載されたものです。上記より前のものは「同窓会会報」をご覧ください。】

『子供は鍛えて強い子に育てよう』   在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和6年6月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

  今年4月には例年のように40万人もの大学生が卒業して企業等に就職した。ところが直ぐに職場環境が悪い、期待していた仕事ではなかったなどの理由で辞めてしまう者が多いようだ。それも離職を自分の口で企業に言うのでは無く、代行会社を使って申し入れるというようなことが増加していると報じられている。売り手市場だからというようなこともあろうが、自分の将来像を見据えないで、その時の一時的感情で判断してはいないかと心配になる。最近の若者の離職が全てそうだと言うつもりはないのだが。社会に出て働いたり、活動するようになると自分の思ったように運ぶことは少なく、他人から注意を受けたり、失敗をしてもこれを我慢し、耐え忍ばなければならないことが多い。そうすることによって自分の精神的力が付いてきて、将来良い成果を築くことができようになるものだ。だから多少のきついことに遭遇しても長い目で見て耐え忍ぶことが必要だ。私の小学校時代に教室正面には野口英世の「忍耐」の額が掛けられていたことを思い出す。  また、引きこもりや不登校の子供も多い。このようになるのは、他人との接触、いじめなどに耐えられないという事情があるのは無論理解できるところであり、対策を打つべきであるが、生まれながらにそうなっているわけではない。日本は少子高齢化の時代に入ったと言われて久しい。家庭でも一人っ子が多い。したがって、大事に育てられ、兄弟間の争いもなく、ややもすると褒められそして何でも子供の言うことを聞いてやることになり、子供にとっては思い通りになって、何も我慢したり、耐え忍ぶ必要がなく育てられる傾向にあるのではないか。学校においても先生は厳しく叱ったり注意することが少ないように思われる。私は小学校時代に若い女の先生に学校内の皆の前で“びんた”を食らって反省させられたことを今でも思い出す。そんなことをすると今ではハラスメントなどと言われたり、親から厳しいクレームが来ることになり、引いては精神失調症で教師を休職、退職せざるを得なくなるからだ。このように育った子供たちは将来どうなるのか。その影響は社会のあちこちで見られるように私には思える。自分の気持ちにそぐわないことはしない。いやだと思うことは避ける。自分にとって楽なことばかりを追い求め、自分の気に会う情報ばかり集める。こんなことは人間だから誰でもそうじゃないかと反論が来るかもしれない。そうかもしれないがそれは程度問題だ。先にも述べたように苦しいこと、苦手なこと、嫌なこと、失敗などに耐え、精神的にも鍛え、自分をコントロールしてやり抜く精神力を養っておかないと、将来の夢、成功は掴めないのではなかろうか。近年結婚しない若者が増えているようだ。少子化の原因でもある。経済的理由もあろうが、相手に合わせて生活するのは面倒くさい、自由に生活できなくなるなどの声を聴くが、将来老齢になった時自分がどのような姿、生活になっているかを思い浮かべるのであろうか。将来の家族での暖かい共同生活、子供を育てる喜びのために勇気を出して踏み出してほしい。  日本には働く力は持っているが働く意思を持っていない潜在的な失業者が数十万人から百万人以上いると言われている。よく火災、事故などにあった家で年老いた親と独身息子がおったなどとニュースに出会うと親の年金で暮らしているのかと疑いたくなるが、人手不足となって困難な状況にある日本のために働く能力のある人は働いて生活の糧を生み出してほしいと思う。  以上いろいろと述べてきたが、今の日本では他国に比べても平等主義、社会福祉策が行き届き、苦労しなくとも面倒見てもらえる、どうにか生きられるという社会環境になっているように思えてならない。現に困っている人にはもちろん手を差し伸べなくてはならないが、将来人が一人前に成長していくためには小さい頃から大人が意識して子供を鍛え、子供も我慢して強くなろうと努力し、社会のために役立つようになろうと育てることが必要だと思う。これは短期間で出来ることではないが、グローバルな世界の中で日本が他国と競争して生き残っていくためには(一人当たりGDP かつて日本は世界2位だったが現在34位)、長い年月をかけてでもいいから強い意志を持って突き進む多くの若者に輩出してもらいたいと願うのは老人の繰り言であろうか。

『学校9月入学の提案』   在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和5年12月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

  何年か前に大学を9月入学にする案が話題になり、検討されたことがあった。これは、日本が4月入学では諸外国が9月入学制なので日本の学生が外国の大学に入学することや逆に外国の学生が日本の大学に入学することが不便となり、諸外国との学生交流や卒業後の就職にハンデキャップを負うことになり是正すべきとのことであったように思う。これについては国内高校との卒業入学時期ミスマッチ、企業入社時期その他予算制度期間との不整合などの問題で立ち消えになってしまった。  私が今回提案するのは、小学校から中学、高校、大学まで一貫して9月入学、翌年8月卒業にしようというものである。しかも、6歳に達する前、早い子供で5歳5か月には小学校に入学することになる。小学校の6歳入学は明治初め頃から始まっているが、その頃と比べると現在の子供たちは身体も発達しており、また社会の学校教育環境も整ってきているので、5歳5か月入学でも問題ないと思う。諸外国をみると、英国は5歳入学、米、仏、独、豪などは6歳が基準だが5歳児も入学しているようである。また、入学時期については、ほとんどの国が9月であり、4月はインド、パキスタン、ネパールだけのようである。  日本において、提案のように現在の4月入学を現在の学校施設、教員数のなかで9月入学にどうしてできるのかと疑問に思われると思う。その仕組みは、暫定的に最初の4年間は12か月間で履修すべき学習内容を10か月間で履修することにある。それによって、毎年2か月ずつ入学時期を前倒しすることにある。10か月履修のためには、その間は土曜日も学校に行き、1日の学習時間を増やし、夏休み期間を短縮するなどの対策が必要となる。4年間という暫定期間だからやってやれないことではないと思う。その学期区分推移は下図のようになる。  入学時期を9月、卒業時期を8月にすれば、①小学から大学まで入学が主要国と同じ9月となるため、大多数が9月入学の諸外国との学生の留学、移動・交換ひいては労働者の移動がスムーズに増加することとなり、我が国おける人材の育成及び外国の優秀人材の雇用にも寄与することが期待される。②学校卒業が7か月早まるので、労働従事人口がその期間分増える。③それに伴い国内の経済生産額(GDP)も増額する。④また、これにより年金積立、税収額等が増えることになる。⑤実社会に出る年齢が7か月早まるので、それに伴い結婚年齢が早まると想定される。⑥またそれに伴い、子供の出生時期が早まり、また出生数も増えると期待できる。  これは、現在日本が抱える少子高齢化、年金問題、財政不足などの諸問題にも一助となるものと期待できる。

 問題点としては、①小・中・高校とも最初の4年間は10か月で学習内容を消化しなければならないので、前述したように土曜日の登校、1日の授業時間の延長、夏休みの短縮などの措置を講じなければならない。②また、その期間は教師の増員を要する。などの一時的な問題を抱えるが、その将来的なメリットを考慮すれば克服できる問題だと思う。是非将来の日本のために実現してもらいたい。

『脳は使わないとダメになる ー デジタル認知症 ー』   在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和5年6月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

  脳は使わないとダメになるーこれは昔から言われてきたことで耳新しいことではない。最近は脳神経科学が目覚ましい発展をしており、その仕組みを真似れば人間のようなAIロボットが作れるのではないかとさえ言われるようになってきている。人間は赤ん坊の脳は生長するにつれて大きくなると同時に神経細胞同士の連携が密になり、前頭前野での情報処理機能、記憶機能、判断機能などの認知機能が急速に発達してくると言われる。発達の度合いは脳を使えば使うほど発達する。音楽才能などは小さい頃から楽器などを修練していれば見事な音楽家として花開く。 近年デジタル化が発展し、スマホを長時間肌身離さず使用している子供が多くなってきているが、長時間も使用している子供ほど成績が悪いとの調査結果が出ている。ラインで直ぐに返事しないと仲間外れにされるから勉強時間中も保持しているとか、動画、ゲームに熱中して睡眠時間が不足するとか、注意散漫になる、イライラしてすぐ切れる、うつ病になるなどの悪影響も報告されている。スマホなどは非常に便利でいろんな知識が直ぐに手に入るが、反面我々の脳は苦労を掛けて、負荷がかかって初めて活動し発達する。脳の認知機能を発達させないと後々まで悪影響を及ぼす心配がある。  また、最近チャットGPTと言われ、どんな質問、要望にも滑らかな言葉で答える生成AIが出て来て、宿題、レポート、事業提案、作詞作曲。シナリオ作成など瞬く間に目の前で出来上がってくる。問題は、①人間が考えなくとも文章成果として出来上がってくる、②それが正しいものかどうか分からない(動画・音声などは本人に似せて作れる)、③秘密事項が漏れることがある、など問題は多く、世界各国でその作成・使用規制が議論されている。所詮世の中を飛び巡る膨大なインターネット、ラインデータの膨大な情報蓄積の中から作り出されるものだから正しいとは限らない、例えば中国でのビッグデータから中国内で作り出されるとすると反政府的な回答は出てこないと思われ、また秘密事項も含まれて出てくるかもしれない、何よりもこれまで人間が作り出したものの集積から抽出され出てくるから創造物は含まれていない。したがって、これに頼っていると未知のもの、創造的なものは生まれない。何よりもこれに頼ってこれが自分の考え、成果だと主張するようなことになると、頭の中は空っぽなのに成果物が目の前にあるということになり、その人間の知識、思考等は発達しないまま留まることになる。脳を使っていないからだ。  また、我々高齢者としても頭・脳を使うことは大事なことだ。その前に身体も使わないと衰えるのだが。定年を迎えた後であっても、元気なうちは仕事やボランティア活動をするなり、仲間とコミュニケーションを取るとか、何か趣味的なことに熱中するとよいが、いずれにしても頭を働かせるようにした方が良い。そうでないと頭がボケてしまう、認知症になってしまう。  また、SNSなどで周辺の人たちとだけで「いいね」などと情報交換をしていると、自分と同じような考えに偏向してしまう。自分のSNSに表示される広告なども自分好みものに偏ってくることになる。このようなことが高じると、反対意見の人との交流がなくなり、やがて社会内で分断、対立が生じることになる。  何が言いたいのかというと、情報、知識というものは、自分の頭でその正当性、合理性、妥当性などを考え、しかもいろんな情報、考えの多様性に挑んでみる必要があるということだ。このためには、小さい頃からいろんな考え、人と交流する、場合によっては意見を戦わす習性を身に着けることが重要だと思う。例えば学校では、クラス内でいじめの問題、SNS使用問題などいろんな意見を皆で出し合って、何が良いか議論させる。高校などではテーマを決めて討論会を実施する。実社会に出たら、上意下達ではなく若い人たちで業務改善策、業績向上策などを討議し合い、実現に向かって進んでいったらよい。周囲から情報、知識を聞きっぱなしにしないで、自分の頭で考えて進んでいかないと人間は後れを取って退化してしまうのではないかと心配する次第である。

民主主義国は拡大するのか 在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和4年12月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

   今年8月元ソ連邦大統領ゴルバチョフが93歳で亡くなった。国のペレストロイカ(改革・民主化)を推進しようとしたが、それがきっかけでソ連は消滅してしまい31年が過ぎた。ソ連が崩壊してその連邦構成国が独立し、またそのワルシャワ同盟国たる東ヨーロッパ諸国がロシアから離れ西側EUに付こうとしたときフランシス・フクヤマ氏の著作「歴史の終わり」というのがもてはやされた。世界歴史の上で共産主義は失敗し、民主主義が勝ったのだと。  果たしてそうなったのであろうか。ソ連消滅の後、ソ連の最大共和国であったロシアのペレストロイカは進んだのであろうか。否、その大統領プーチンは、ソ連の一部であったウクライナをもともとロシアの隷属国家にあるべきものだとして、今年2月ウクライナの領土、主権を侵略している。中国は、共産党独裁政治で国民の言論の自由を許さず、コロナ感染防止として行動の自由を封じ、また民族の自由を認めずにウイグル族を拘束している。また社会主義国に限らずEUハンガリー国のオリバーン大統領などは批判するマスコミを認めず、裁判所・国会の権限を一方的に制限するなど民主主義を侵害している。また米国でさえ、前大統領トランプ及びその支持者は前回大統領選挙で投票が盗まれたとして民主主義の根幹である選挙結果を認めようとしない。  ソ連の崩壊で世界の中で民主主義国が広がりつつあると思いきや最近の調査報告では、民主主義国が減ってきていると報じられている。この現象を我々はどのように捉えるべきなのであろうか。そもそも民主主義とはどういうことを指すのであろうか。中国は中国式民主主義もあるのだと言っている。ゴルバチョフは、自叙伝「我が人生」の中で、ペレストロイカの目的は「人々を開放し、誰もが自分たちの運命や国に主体的に関われる存在とすることだった。」なぜなら「我々が引き継いだ体制の土台には、党の全面的な統制があった。スターリンの死後、彼がつくった体制は大衆弾圧を放棄したが、その本質は変わらなかった。体制は国民を信用せず、国民が自立して歴史を創る能力を信じていなかったのだ。」と述べている。この言葉を、プーチン、習近平その他の独裁的指導者に聞かせてやりたい。まさしく民主主義を言い当てた言葉だと思う。 これらのことを「歴史の終わり」の著者フランシス・フクヤマは最近の著作「「歴史の終わり」の後で」において次のような趣旨のことを述べている。「自由民主主議は人間社会を組織するにあたって考えられるさまざまな方法の中で最善のものだ。なぜならそれは人間の最も基本的な望み、他人からその存在を承認されたいという願望を最もよく満たすものであり、普遍性と耐久性があると考えられる。これは経験的な主張ではなく、規範的な主張である。」  人類(ホモ・サピエンス)は、史上途中で滅亡したネアンデルタール人とは違い、他人を認め広く協力することが出来たがゆえにこれまで発展してきたと言われる。また、個人の尊厳の認め合い、人権の尊重、自由な意見表明、法の支配などの社会規範は社会の近代化とともに広く発展してきている。確かに現在でも、後戻りするかのようなロシアの圧政・侵略、中国でのゼロコロナ政策等による住民拘束・言論統制、ミヤンマーでの軍事圧政、中東等からの難民逃避などなど世界では自由民主主義に反する国家状況が見られるが、長い歴史の目で見ればそれぞれの国の国民は人間の尊厳を求めて主張し、立ち上がっていくものと思われる。そのために大事なことは、民主主義諸国がウクライナ支援のように強力に支援、協力しながら、それぞれの国において教育が普及し、少しずつでも生活を向上させていくことであり、そのことを願ってやまない。

非常事態措置は平時に用意すべき 在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和3年12月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

   今年も間もなく暮れようとしています。今年の出来事で特筆されるのはやはり2年続きの新型コロナ感染事案でしょう。コロナパンデミックにより世界中でいろんな事象が生じた。一時的なもの、これを機に変化するものなど。このコロナパンデミックから我々は何を学び、今後のために何を生かしていくべきなのだろうか。  先ず、コロナ感染事案に対する各国の対応は様々であり、その国の政治体制、国民性を如実に表している。中国は国民の感染発生状況を監視しており、発見されるとそこの居住区、地域を封鎖して外出を禁止し、住民に検査を強制的に受けさせ隔離する。感染地域が広がると都市封鎖をしてそこからの出入りが禁止される徹底ぶりだ。共産党の指示により国民の生活は縛られ自由を喪失することになる。ブラジルなどは大統領が自らがコロナなどはインフルエンザみたいなもので恐れるに足らず、ワクチンなども不要として大した手を打たないので感染者、死者の増大に対して多数の国民が抗議しているが、独裁的指導者は動かない。その他米欧諸国などはワクチンを奨励し接種率もそれなりに上がってきているが、若者を中心に未接種者はかなりの数に上り、新規感染者は波はあるものの社会生活が平常に戻るほどには減少していない。ワクチンを接種するか否かは個人の自由に属することとして副反応や主義主張を盾に接種しない人が比較的多い。翻って日本は、自分の健康維持を重視するのは当然として、他人に対する思いやりの精神が強い。従って他人に感染させないためにもマスク、手洗いをし、外出を控えそしてワクチンを接種しようとする。この効果があって、オリンピック開催の時期を挟み大きく拡大した新規感染者数も、11月、12月になって驚くほど急激に減少してきた。6波到来とならずこのまま収まってほしいと願うばかりである。  コロナ感染防止対策として個人の行動・選択の自由などの権利をどこまで制限すべきか、制限してよいかということは、先に見たように世界各国により異なり、その国の政治体制、国民性を如実に表す。その中で問題となっているのがワクチン接種の義務化だ。  ワクチン接種を嫌がる理由としては、発熱などの副反応が怖い、ワクチンにより体質が害されるのでは、他人が接種すれば打たなくとも感染しないなど、デマも含めた様々なことを理由に挙げ、これは個人の人権に属することだとして拒否する人がいる。無論身体疾患のため接種できない人は別だが。また接種者が国民の8~9割に達しないと終息させるのは難しいのではないかと言われると、接種の義務化と個人の自由人権との相克が問題となる。  例えば、病院施設や介護施設において看護師や介護士が未接種者だとすると患者や介護者に感染させるリスクがあるので、施設の管理者はこれらの者に接種を義務付け、従わなければ解雇することは出来るだろうか。接種が個人の自由だと言っても業務の上で感染させる恐れがあるということになれば、単なる個人の自由では済まされないのではないか。  憲法12条に「憲法が国民に保障する自由及び権利は、 ・・・・これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とあり、また憲法13条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定されている。これは、感染の拡大が公共の福祉に反することになるならば、接種を義務付けるか他に感染させる恐れのない部署へ配置転換しても憲法に反しないということになるのではなかろうか。  このことはワクチン接種のことに限らず、例えば今非常に懸念されているオミクロン株という新種のコロナによる感染が急拡大して緊急事態となり、その防止のためどうしても必要な場合に、諸外国でやっているように夜間外出禁止にすることや病院でのコロナ治療義務化なども憲法に反せずやむを得ない処置ということになるのではなかろうか。更に、大災害被害や武力・非武力による外国からの侵害のような非常事態に対処するため必要な処置事項については、非常事態になって検討を開始しても間に合わず、平時の時において国民の間で議論し、国会で慎重に検討の上準備しておくべきものと考える。 

どんな社会がいいかーコロナ禍から考える 在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和2年12月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

    年初から始まった新型コロナウィルスのパンデミックは1年が経とうとしているが終息しないばかりか、世界各地でその勢いを増しつつあるようだ。コロナに対する対処の仕方は国によって異なっているようで、指導者の方針によっては厳格に感染予防に対処している国もあれば、コロナといえどもインフルインザと同じように恐れることはなく、一定程度広がれば自ずと終息すると楽観しているような国もあるようだ。
 マスク着用についても国によって異なるところがある。日本では、電車の中はもちろん広い公園の中でもほとんどの人がマスクを着用している。私は10月末久しぶりにゴルフの練習場に行った時、練習中はマスクをしないので持って行かなかったが、屋内で順番を待とうとしたところ、そこに居た人からマスクが無いなら外で待つように注意された。日本でマスクをするのは、自分の感染予防もあるが他人に感染させないようにとの心配りがある。外国ではどうか。トランプ大統領はマスク嫌いで有名だが、マスクをするかどうかは個人の自由であり、強制するのは基本的人権に反すると主張までするような人が欧米社会に多い。まさしく個人主義の社会だ。自分の行き様が大事で、それは自分優先の社会のようにも思える。
 アメリカでは国民の間で分断が生じ、相手を敵視するような様相になっており、欧州ではポピュリズムでこれまた国民の間で角を突き合わせているおり、仏教の国タイでも国民の間で抗争をしている。このような国家、社会と比べると、日本は飛鳥時代から「和をもって貴しとなす」精神が受け継がれ、同質の社会でお互い気遣い助け合う国家社会になっている。しかし、だからと言って個人自由主義を尊ぶ欧米社会より優れていると言えるのであろうか。
 日本のような共助型社会が良いか、或いは欧米のような自助型社会か、それとも中国のような強権型社会か。強権型社会というのは、社会効率という観点からみると強権による指示・指令が正しいものであって、きちんと従わせることができれば成果は早く大きくでるであろう。中国は見習うべき先進諸国に習って短期間のうちに経済大国になれたのもこの一党強権によると言える。また、コロナの発生国でありながら早く終息させることができたのはこのせいだろう。問題はこれがいつまで続くのかということだ。これまでは強権とはいえ国民の生活は少しづつ良くなってきているので、全般的に国民の不満は大きくはないように思えるが、これから社会の高齢化も急速に進んでいき、経済が低迷し、失業が増え、社会不満が大きくなった時、国民を監視し、自由を奪っている強権政治は持たなくなるのではないか。
 日本は、真面目、勤勉で、自然との調和・美意識を尊ぶ平穏な国という世界に誇るべき良さがあり、この点は維持すべきだが、国家社会は、現在グローバリズムの中にあって、一国だけではその意志を貫けない相互依存関係にある。また、経済、安全保障等では競争・対立の面もあり、時として衝突する。このような世界環境の中にあって、日本が発展していくためには、他国の技術、システム、文化等に負けないように経済、技術、教育、福祉等で成果を上げていかねばならない。このように競争が厳しく国益が激しくぶつかる世界のなかで発展していけるだろうか。かつて一人当たり国民所得は世界最上位だったが現在は17位に落ちており、技術水準の傾向を示す特許申請数・論文発表数などもかつての勢いがなく、またデジタル発展度も先進国では後塵にいる。老齢化も進み生産人口も減少する一方で、不安がぬぐい切れない。
 したがって、これから青少年に大いに頑張ってもらいたいと思うのだが、そのためには平穏な周囲の社会との衝突を恐れずに突き進む気構え・精神力が必要だ。ハングリー精神を持ってもらいたのだが、ハングリーでない若者にその精神を持ってもらうためにはどうしたらいいのだろうか。

新型コロナウィルス危機から考えること 在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和2年6月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

    今年は新型コロナウィルス感染で年が明けた。1月初め中国武漢で新型コロナウィルスの感染が発生したとの発表以来、初めは中国内で済むのかなとの期待をよそに韓国、日本、ヨーロッパそして米国更には全世界にと瞬く間に感染が拡大してパンダミックとなり、現在既に世界で700万人の感染、40万人の犠牲者が出てなお増加しつつある。この感染拡大、その阻止、治療そして市民生活の確保と世界が死にもの狂いになってきた事態を見てきたとき私は次のことを考えさせられた。
 第一に、この感染の爆発的拡大、それに伴う多数の犠牲者の発生に直面した時、国の指導者は自国民の生命そして生活を守るため、必死の思いで人の外出・行動を制限し、隔離し、また外国との往来を禁止し、マスク、人工呼吸器などの医療物質の確保と治療に努めた。そこでは自国優先であり、それまでの世界的に自由な人の往来、経済交流など構っておれない事態との認識で様々な緊急措置を強制的に実行に移した。また生活・経済を守るため巨額の財政支出を行った。その流れの中で強権的に施策を打つ指導者も見られ、眉をひそめる国もあったが、いずれにしても、これは人々が危機存亡に陥った時は、最後は国家が自国民の生命・生活を守る役目を果たすのだと改めて認識させられた。したがって、我々としては、非常事態において本当に国民の生命・安全を確保するために必要な国家としての備えを平時から怠ってはならないと感じさせられる。
 もう一つ考えさせられることは、個人情報の把握と利用の問題です。既に感染している人から感染を避けるためには、感染者の所在を把握し、その人と接触しそうな人、接触してしまった人にそのことを知らせることができれば感染の拡大は阻止できる。このため、感染者が特定出来たらその人のスマホの位置情報から至近距離にいる人のスマホに知らせるようにできるという。韓国では感染者とクラブで一緒にいた者にPCR検査を受けさせようとしたが偽名、偽アドレスの提出だったため連絡がつかないので、同時刻、同場所にいた記録のあるスマホを調べその保持者を特定したともいわれる。またイスラエルでは、保健当局が感染者から得たスマホアドレス・番号を警察に通報し、スマホの所在位置から規制違反の行為があれば警察に収容されるという。また、市中にある監視カメラで顔認証されれば感染者の追跡が可能になるという。
 このように個人の情報をスマホを通して把握することは、今回のコロナ事態でクローズアップされたが、そもそもそのスマホ等の情報経歴を覗くことができれば、位置情報に限らず買い物情報、金銭収支情報、顔認証、検索経歴から個人の関心情報更にはオンライン診療経歴からは個人の健康・生体情報までを知ることができる。このような個人情報が本人の承諾の上で把握されるのであればいいが、いつの間にか知らぬ間に知られているということになると怖い。このような個人情報を掌握できる者が国家機関ということになれば、時の政権に利用され、反政府的な思想、行動の持ち主だと睨まれると個人の自由を喪失することにもなる。
 これからの社会はIT化がますます進化し、ネット化されると、スマホ、PC,カード、監視カメラ等からの様々の個人情報にアクセスできるようになるが、この個人情報の保護・保全、活用、悪用阻止のため納得できる機能的、法的措置が今後一層求められる。
 最後になったが、日本は今回のコロナ危機事態において強制的な外出・行動規制をすることなく、世界的には感染者数、特に犠牲者数が少なかった。これは日本国民がマスク、手洗いなどの衛生習慣が行き届いているほかに、強制されなくとも自己とともに社会全体のためを考え、自主的に行動する国民性を有することが世界的にも認められたことであり、大いに誇りにして今後も守っていくべきことだと思う。

韓国人の歴史的恨みと会津人の歴史的恨みは同じか在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和元年12月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

   現在日本と韓国はかってないほどの対立関係にある。原因は1965年の日韓基本条約を巡る対立であり、更に遡れば1910年の日本による韓国併合に辿ることになる。  韓国人にとって、中国や米国の大国はともかく、日本は中国(中華)から朝鮮に伝えられた文明、文化を伝授した海洋遠く離れた小国であり、韓国はその日本に1910年に併合され国が消滅して日本国の一部になった。その結果日本人として苗字、教育、宗教、法律などが日本に同化させられ、戦争時には犠牲になっている。このことは、韓国人としては許容しがたい屈辱だと感じ、子供に対し歴史教育を通じて反日感情を植え付けており、日本に対し対抗心を燃やして何かあると反日的行動をとっているものと思われる。
 確かに日本にとって朝鮮半島は国の防衛、外交政策上重要な位置にあり、過去には白村江の戦い、秀吉による朝鮮出兵、日清戦争、日露戦争などで朝鮮半島に出兵している。
しかしながら、世界の歴史を見れば、強力な軍事力、経済力を持つ国が弱小国に対し攻め入り、国を拡大し、国富を増やして国の安寧を確保するということは何処でも見られたことであり、道義的に責められるということはなかった。それが第一次大戦後ころから人の人権が尊重させるようになってきて大量虐殺、一般市民殺害は禁じられるようになってきた。
そうであっても、日本が韓国を併合したことは国の防衛、発展のため国策として行ったことであり、咎められることではない。 ただ韓国人としては悔しいことであり、日本に対して恨みの感情を懐くことは理解できないことではない。しかしこの歴史的過去の事実・経緯をいつまでも持ち続け、このことによって隣国日本との関係を害することは、現在そして未来に向かって生きる者にとって賢明なこととは思われない。歴史的事実・経緯はそれとして理解しながらも双方の国民の発展のために協力し合うべきものと思う。
 ひるがえって会津と長州の関係を考えてみたい。
会津から戊辰戦争を見ると、会津藩は朝廷と幕府との公武合体のため尽力し、孝明天皇からも信任が厚かったのに、朝敵として長州等の政府軍から攻撃され、降伏させられ、幾多の苦難を背負わされたのは納得、承服できない、これを主導した長州は許せない、恨みに思うということだろう。 長州の立場からは、孝明天皇の攘夷のご叡慮に忠実に従って外国船攻撃をしたのは長州であり、蛤御門の変後に第1次長州征討で三家老切腹して謝罪したのに第2次長州征討を主導したのは会津藩である。また戊辰戦争から明治維新への変革は、革命というべきものであるから、フランス革命、ロシア革命、ベトナム統一など反革命勢力に対して徹底して打倒して新しい体制を生み出すのは陣痛みたいな政治行動なので、それに対して道義的に良し悪しを判断するのは如何なものか、という反論がありそうである。
 昨今会津で長州・山口県人に対して「仲良くするが、仲直りはしない」ということが言われることがある。広辞苑で「仲直り」を調べると、「仲が悪くなっていた間柄がまた仲良くなること」とあるので、仲良くすることは仲直りすることと同義語のように思われるのだが。今の山口県人とは仲良くするが、戊辰戦争時に長州人のとった行動は許せないという過去と現在の使い分けであろうか。  いずれにしても、会津人が歴史事実の観点から長州・山口県人を許せないといつまでも恨み続けるのは、韓国人が歴史事実の観点から日本を恨み続けているのと同じようにも思われるのだが如何なものであろうか。

人間関係を令和なものに   在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

令和元年5月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

   5月1日から元号が令和に変わった。「令和」は万葉集から引用し、その意味は「令(よ)い和やかさ」ということで、聖徳太子は17か条憲法で世の平和のためには「人の和」が大事だと説いている。それ以来日本では、和やかな人間関係「人の和」を大切にし、世界から礼節に富んだ国民だと評価されてきている。
 しかしながら近年、日本国内において人と人の間において争い、不和等の関係が目立つようになってきているように思える。子供同士のイジメ、パワハラ、セクハラ、暴力問題、不登校、引きこもり、などなどである。我々の小さい頃、若い頃にはあまりなかったように思える。多少あったとしてもそのことは余り問題視されなかったし、やはり近年増えてきて社会問題化しているものと思う。子供同士のイジメは、昔はガキ大将が弱い子をいじめることはあったが、今のように相手の人格を否定するような陰湿なイジメは少なかったように思う。また体罰の問題があるが、私自身小学校時代に先生からビンタを食らうことを経験した。どうしてこうなったのか。一つには一人っ子のように少子化になったため兄弟同士で、あるいは地域の仲間同士で「程よい人間関係」を作る訓練が小さい頃からなされてきていないので、自己主張しながらも自制し、我慢しながら他人と仲良く行動することがあまり経験せずに育ったことがあるように思われ、そしてまた大人が子供に腫物を触るように遠慮した対応することが底流にあるように私には思える。親、先生などの大人と子供では、人権は平等でも、対等、平等ではなく、育てる、教えるという立場が違うのであるから、将来世の中で自立できるように鍛え、教え込まなければならない。教育効果のため多少の愛のムチは許されるべきと思うが、これが許されないとするのは行き過ぎた平等意識のせいだとも思える。
 他にも大人同士のパワハラ、セクハラなどの問題がある。昔は上の者から「バカ、お前なんかどうしようもない!」と怒られたことはよくあったように思える。このことを厳しく叱られたと反省して受け止めるか、自分の存在を否定されたと落ち込んでしまうかはその状況にもよると思うが、受け止める人にも左右される。ここでも子供頃からの育てられ方が影響すると思うのだが、小さい頃から周囲から鍛えられ、自制し、我慢しながら上手く適応するように育ってこなかったことが底流にあるように思えてならない。無論子供は子供ながらに大きな情緒・精神問題を抱えていることがあるのだが、そのことを大きな情緒・精神問題と抱え込まない人間のタフさを身に付けて欲しいと願うのは無理なのだろうか。確かに社会環境、社会状況は大きく変わってきてはいるのだが。会津には「ならぬことはならぬ」という什の教えがあった。これには二つポイントがあって、一つは「ならぬこと」の内容で、嘘をついてはならぬ、卑怯なことはならぬなどはその通りだが、戸外で婦女と話してはならぬというようなことは今の規範から外れるので、その内容はその時代に即したものになるべきだ。二つ目は教える内容についてはその理由はともかく、人の道だと頭から子供に教え込む点だ。この点はいつの世になっても特に小さい子供に対しては重要なことだと思う。その観点からすると、今教えるべきことは、孔子の教えである「己の欲せざること人に施すことなかれ」であり、これが人間関係の基本であって、別の表現を借りれば、冒頭の「令和」の精神だと思う。したがって、これからは、小さい頃から大きくなるまで、家庭で、学校でそして社会で「自分が人からされたくないことは人にはするな」ということをしっかり教えていくべきものと願う次第である。

『移民流入と外国労働者受け入れ問題』   在京会津高校同窓会会長 大越 康弘(高13回)

平成30年11月発行 在京会津高校同窓会会報 表紙の言葉

   現在日本では少子化のため人材不足で外国から労働者を導入しようとする動きが活発になっている一方、外国では難民の国内流入を食い止めようとする動きが大きな政治問題となっている。どちらも外国人を自国に受け入れるかどうかということで共通性がある。
 外国人の旅行のような一次的滞在でなく、長期間移民のように受け入れることについては、日本に限らず欧米等でも共通の問題であり、(ア)不足する労働者の補充で経済・社会が活性化する、(イ)貧困、生活不安に喘ぐ外国人の救済になる、(ウ)技能等を身に着けやがて帰国すれば母国の発展に寄与するなどのメリットがある反面、(ア)自国民の就業が奪われるのではないか、(イ)外国人への安い賃金により自国民の賃金が押さえられるのではないか、(ウ)治安が悪化するのではないか、(エ)風俗習慣等の違いから自国民との間で軋轢が生ずるのではないか、(オ)流入外国人の社会保障等のために自国の財政が犠牲になるのではないか、などのデメリット、問題がある。したがって、どのような外国人をどのくらい、どのような条件で受け入れるか否かは、その国の主権に係わることであり、その国民の判断、政策によって決められるべきことである。
 また、現在アメリカでは、中南米からの避難民が大量にメキシコ経由して入国しようとするのを軍隊を動員してでも阻止しようとしており、欧州では中東、アフリカからの政治・経済難民の流入するのを壁を作ってまで阻止しようとする動きがあり、また難民受け入れに理解の深かったドイツのメルケル首相も国内での反対が強くなってきて自派の選挙の負けが続いている。これらは中東、アフリカでの内乱、騒擾により難民が豊かで、平和な欧米諸国へ逃避しようとするのを拒絶しようとする動きであり、人道博愛思想にもとる民族主義、ポピュリズムの動きだとマスコミなどで批判されている。ただ逃れてくる避難民の悲惨さ、事情は映像、写真で良くわかるが、それらの人々を国内に入れるかどうかは、国民国家たるそれぞれの国の国民が受け入れた場合の利害得失を考慮して決定すべきものである。それによって入国が不法となれば入国を排除することはやむを得ないことである。
 したがって、外国労働者受け入れであっても、また難民の受け入れであっても、受け入れの是非を決める国の国民は、入国しようとする人々の状態・事情もよく考慮し、民族や宗教に固執することなく、世界の人々の価値の多様性を認めて、世界全体として平和で安定して暮らせるように配慮しながら判断してもらいと痛感している。
 世界のいろんな民族、宗教の人々が相互に自由に結婚し、子孫を残していけば、やがて世界から戦争が無くなる日が来るのではないかと夢想する次第です。