三五会(高12回)

高12回卒業60年の三五会の想い出

   60年が経過した今、僭越ですが、伊藤が友と刻んだ三五会の歩みを少し述べさせて頂きたいと思います。
 はじめに 高12回卒業60年の記念誌の発行について 母校130周年記念式典での発行を予定していたが 式典が令和3年に1年遅れとなったので、現在まで15名から原稿を頂いていましたが、募集期限を令和3年5月末日に延長し、発行は令和3年秋とします。発行理由は、我々12回生は希有の甲子園世代であり、選手の練習の様子、記録と当時の世相や出来事を含めて記念誌として残し、母校の図書館や我が家の書棚に載せ、後輩、後世に残すことです。恩師三瓶先生は俳句を嗜んでおられ、手代木先生は短歌集を発行され、畑先生が会津歴史書を残された。また高10回生兼子先輩が栗村先生とともに記念誌を発行されたことも動機です。募集要領は、題材自由(写真絵画、短歌俳句、紀行文、体験談、自分史等)字数の制限はなしとします。構想なしに自由に自分史を書いてみることから始めると楽しいものですので、1稔発起して自主的に進められることをお願いいたします。次に私の生い立ちと友の紹介をします。
○ 私の生い立ち 私は只見川沿いの奥会津三島町の山里の発電所社宅及び柳津の社宅で幼児少年期をすごした。そこには、春夏秋冬の自然の美しくも厳しい生活環境があり、戦後の食糧自給の生活の中で過ごした多くの友と生活の術を学び工夫と好奇心を鍛えられた想い出があります。その中で会高に進んだ友にはユニバックで活躍し今もトライアスロン世界大会で活躍する堀内匡君、地下鉄のロータリ−掘削機の開発に挑んだ志田嘉平君、郵政事業に献身した二瓶忠君、自動車輸入に取り組んだ鈴木寛君、鐘紡化粧品の柄本康之君、柳津町では積水化成の釣り好きな佐久間勝弘君、後に甲子園投手となる黒岩正明君とは夜遅くまで彼の剛球を受ける野球に没頭した。彼は東京オリンピックではフランス語の通訳をして外務省に入り、アフリカはコンゴに赴任、その後は医療機器の輸入に学術的に取り組む傍ら鍼灸院を開いている。テニスでは60代の神奈川県チャンピオンになりフルマラソンにも挑戦する超人。伊藤は 自動車産業(いすゞ自動車)に身を投じ、生産開発購買で原価管理を担当。凡そ40年勤める。定年後は国立電通大で特任講師を10年間幼友堀内匡君と勤めた。鶴城小に転校しても、伊藤忠役員の小沼紘君、共に野球をした三上幹男君といすゞ同時入社の渋川博君、アストロ光学社長の冨所雅之君は甲子園球児、志波東洋君、川俣力男君など枚挙にいとまがない多くの友に感謝 です。
○在京三五会の誕生経緯 三五会の呼称は卒業15周年の昭和50年夏に畑敬之助先生の発案で命名された。私は、母校100周年に、大関勝君から参加依頼がきて、初参加をした。友と再会を楽しんだ最後の締めの指名があり『フレ−フレ−三五会』とやったら、「おまえ応援団だったのか?」と言われて、高瀬喜左衛門さんから名簿委員を委嘱され、また東京で三五会を開いてくれと依頼されたのがきっかけで、在京三五会が平成6年秋に、大森のいすゞ自動車の本社ブッフェで在京三五会が結成された。参加者は、全国から97名(男子70名、会女サポ−タ−27名参加)であった。その元祖会女合同の趣旨について「高校の普通課程を学んだことを共通項とする」と説明をした。その時本部会長武藤君から、私伊藤が会長に、志波君、小沼君、大須賀君、黒岩君、高橋君、大平君ら12名の在京三五会幹部が指名されて今日に至っている。その時大平善敏君の依頼で書いた記事が、学徒動員でいすゞを体験した渡部敬三先輩等から懐かしがられた逸話がある。その後ほぼ毎年開いて今に続いている。
○名簿管理について 私は、名簿委員に委託されて、定期的な名簿の改定があり、異動把握のフォローが大事な役割なので、名簿の維持管理は学年幹事の任務と考えて一途に会津人魂を貫き通している。
当初は在京在住140名を全員登録して、在京新聞と通じて情報を会員に知らせることを長きにわたり続けてきた。在京三五会を支える多くの同僚,先後輩に感謝し、この歩みを続けます。
  (伊藤俊郎 高12回)

三五会(高12回)

平成最終日の晩餐会

 母校100周年の時に高瀬喜左衛門氏から名簿委員を委託されたのが切っ掛けで、卒業311名中150名が在京在住と知り、いすゞ自動車の大森本社のビュフェに97名(会女28名含む)の参加で在京三五会が誕生した。以来大森で11年間に8回開き、会の土台を築いた。令和前日の雨に咽ぶ江ノ島を散策後、幹事小沼紘君ご贔屓の料亭に22名が集い、初の生シラスと伊勢エビを食して大いに盛り上がり平成最後の晩餐を締めた。更に令和を歩む35会。   (伊藤俊郎 高12回)