第24回歩こう会『会津藩ゆかりの江戸を歩く』

  

 松平容保誕生から東京の旧菩提寺まで



 11月12日日曜日、朝から雨が降る寒空の中、東京駅前「丸ビル」ロビーに9時に集合した。昨年と同数の37人の多数の参加を得て、9時半、行幸通りを「和田倉門橋」に向かって江戸へのタイムスリップに出た。「和田倉門」の前で呉服橋方向に続く運河「道三堀」に想いをはせた。江戸城への物資はここで荷揚げされ和田倉に保管された。
 「和田倉門」は伊達正之などにより建設された。今は建物を写真で見るだけであるがやはり防御のための枡形である。  
門内に入ると松平容保が1684年に拝領した「会津藩上屋敷跡」に出る。現在は環境省管理の国民公園で噴水が中心である。看板はなく古地図を頼りに眺めた。行幸通りの南側まで9150坪と広大で幕末まで本邸として使用したという。上屋敷は参勤交代の藩主が拝領して政務をおこなった所であり、時代によって移転している。保科正之が会津藩主の時代は鍜治橋内にあったという。そのあとはどこにあったのだろう。  
傍らの江戸城発掘の資料館を見学した後、内堀通りを渡って「桔梗門」に向かった。本丸南口通用門であったため容保など登下城に使用したであろう。近くて良い場所に上屋敷を拝領していた。家康入府の際、太田道灌時代の瓦に桔梗紋が残っていたので門の名前になったという。  
次の「坂下門」は磐城平藩主老中安藤信正を尊攘派の水戸浪士が襲撃して失敗した「坂下門外の変」の場所である。桜田門外の変の後である。次に二重橋方向に進む左手が「長岡藩上屋敷跡」である。会津藩より狭いが8400坪あったという。ここで河井継之助は11代藩主の牧野忠恭に謁見して大砲と軍艦の整備を訴えたという。  
さらに「二重橋」前に進み集合写真を撮影した。
 
その「二重橋」前の南側が「高遠藩主保科正之邸」である。1629年正之は19歳で兄の3代将軍徳川家光と次兄の徳川忠長に初対面を果たしている。気に入られた正之は忠長より家康の遺品を与えられたという。31歳で高遠藩主となる。  
その前方の「桜田門」外にでて右手の小高い井伊藩邸から大老井伊直弼が登城したであろう場面を想像した。脱藩水戸藩士による「桜田門外の変」の場所である。こちらが外桜田、先ほどの桔梗門が内桜田と呼ばれる。  
また振り出した雨で急ぎ内堀通りを渡り外苑東南角の楠木正成像に再集合を約し、三々五々食事をした。この辺りは「陸奥泉藩(福島)若年寄本多越中守忠徳」(2万石)の屋敷跡である。  
雨上がりを待ちゆっくりして「馬場先門」を出て日比谷公園に向かった。堀沿いに日比谷公園に向かう道路一帯は「日比谷入り江」という海だった。  
日比谷見附から日比谷公園に入ると「仙台藩上屋敷跡」である、露骨な野心で家康に警戒され、帰国を許されず江戸の天下普請に動員されて2年間をここで過ごした。1600年の家康の会津征伐では正宗は家康から上杉景勝への備えを求められた。1601年には、したたかにも国分家居城を整備し仙台城と改称し、城下町整備も行い仙台藩の初代藩主となった。享年70歳でこの江戸藩邸で食道噴門がんで終焉を迎え防腐処置の上、駕籠で大名行列で仙台に戻った。そのほか日比谷公園北側には隣に毛利家「長州藩上屋敷跡」、上杉家「米沢藩上屋敷跡」が警視庁方向に向かって並んでいる。  
「米沢藩上屋敷跡」は現在は法務省旧本館である。道路の角の植え込みに米沢市により江戸藩邸跡の碑が置かれている。上杉家は秀吉から1598年会津転封を命じられた直後、秀吉が亡くなり、上杉景勝と直江兼続は若松城ではない神指城の建設を開始したことで家康から謀反の疑いを掛けられて会津征伐に繋がった。その後謝罪したが会津など没収され出羽米沢30万石に減封となる。  
公園を出て警視庁前を通り桜田門外を右に眺めながら憲政会館の辺りの小高い「彦根藩上屋敷跡」に向かった。井戸の跡が保存されている。幕閣の中枢として城内では会津松平家・高松松平家と同じ将軍に最も近い席であった。直弼は藩主になると大老職に就き勅許を得ず日米修好通商条約に調印したことがきっかけとなり「桜田門外の変」につながった。藩邸からは直弼が雪の朝、登城したであろう途が眺められる。  
坂を下りて「有楽町線桜田門駅」で乗車し、市谷で都営新宿線に乗り換え「曙町」にて下車、いよいよ向かうは容保の誕生の地「美濃高須藩上屋敷跡」、高須藩は岐阜県南部に立藩し尾張藩の支藩となった。10代藩主松平義建の六男(母は側室古森千代)として1835年にここ江戸四谷土手の藩邸で誕生したのが容保である。尾張藩主や桑名藩主などを務めた高須四兄弟は歴史に翻弄されながら、容保は旧幕府側となり次男の慶勝は新政府側に分かれている。藩邸跡の現在の荒木町は花街として有名であったが見番跡には「とんかつ鈴新」があり、容保や四兄弟の詳しい話が聞けるそうである。  
四谷三丁目を通り御苑大木戸門の玉川上水の最終「大木戸水番所跡」や水道局新宿営業所の裏と横の記念碑を訪ねた。ここから神田川に合流する暗渠と「渋谷川吐水口」の南の水に分岐された。  
ここから新宿二丁目の「正受院」に向かった。戊辰戦争の若松城籠城戦で城内の婦女子を指揮した義姉の照姫と容保が埋葬されていたが、23年半後の大正6年、2人は若松の院内御廟に改葬された。松平家の墓の跡は晩年の容保のお世話をした会津藩士の野村家に与えられ、生涯独身だった松枝が埋葬されている。墓碑には今も花が飾られていた。野村家の墓に焼香して、晩年に小石川の自宅で肺炎で享年59歳でなくなった容保を偲んだ。廃藩置県翌年の明治5年斗南から帰り蟄居を許されたが家は困窮したそうである。その後、日光や上野の東照宮の宮司をつとめた。神号を「忠誠霊神」という。ちなみに家康の神号「東照大権現」を祀る東照宮が全国で500社を超える。  
参加者からは「都心は仕事で良く通ったものの、会津藩がここまで江戸から現在までつながっているのか、というあらたな発見になった」と言う声が聞かれた。

   齋藤仁(高20回)