第24回歩こう会『会津藩ゆかりの江戸を歩く』

  

 松平容保誕生から東京の旧菩提寺まで



 11月12日日曜日、朝から雨が降る寒空の中、東京駅前「丸ビル」ロビーに9時に集合した。昨年と同数の37人の多数の参加を得て、9時半、行幸通りを「和田倉門橋」に向かって江戸へのタイムスリップに出た。「和田倉門」の前で呉服橋方向に続く運河「道三堀」に想いをはせた。江戸城への物資はここで荷揚げされ和田倉に保管された。
 「和田倉門」は伊達正之などにより建設された。今は建物を写真で見るだけであるがやはり防御のための枡形である。  
門内に入ると松平容保が1684年に拝領した「会津藩上屋敷跡」に出る。現在は環境省管理の国民公園で噴水が中心である。看板はなく古地図を頼りに眺めた。行幸通りの南側まで9150坪と広大で幕末まで本邸として使用したという。上屋敷は参勤交代の藩主が拝領して政務をおこなった所であり、時代によって移転している。保科正之が会津藩主の時代は鍜治橋内にあったという。そのあとはどこにあったのだろう。  
傍らの江戸城発掘の資料館を見学した後、内堀通りを渡って「桔梗門」に向かった。本丸南口通用門であったため容保など登下城に使用したであろう。近くて良い場所に上屋敷を拝領していた。家康入府の際、太田道灌時代の瓦に桔梗紋が残っていたので門の名前になったという。  
次の「坂下門」は磐城平藩主老中安藤信正を尊攘派の水戸浪士が襲撃して失敗した「坂下門外の変」の場所である。桜田門外の変の後である。次に二重橋方向に進む左手が「長岡藩上屋敷跡」である。会津藩より狭いが8400坪あったという。ここで河井継之助は11代藩主の牧野忠恭に謁見して大砲と軍艦の整備を訴えたという。  
さらに「二重橋」前に進み集合写真を撮影した。
 
その「二重橋」前の南側が「高遠藩主保科正之邸」である。1629年正之は19歳で兄の3代将軍徳川家光と次兄の徳川忠長に初対面を果たしている。気に入られた正之は忠長より家康の遺品を与えられたという。31歳で高遠藩主となる。  
その前方の「桜田門」外にでて右手の小高い井伊藩邸から大老井伊直弼が登城したであろう場面を想像した。脱藩水戸藩士による「桜田門外の変」の場所である。こちらが外桜田、先ほどの桔梗門が内桜田と呼ばれる。  
また振り出した雨で急ぎ内堀通りを渡り外苑東南角の楠木正成像に再集合を約し、三々五々食事をした。この辺りは「陸奥泉藩(福島)若年寄本多越中守忠徳」(2万石)の屋敷跡である。  
雨上がりを待ちゆっくりして「馬場先門」を出て日比谷公園に向かった。堀沿いに日比谷公園に向かう道路一帯は「日比谷入り江」という海だった。  
日比谷見附から日比谷公園に入ると「仙台藩上屋敷跡」である、露骨な野心で家康に警戒され、帰国を許されず江戸の天下普請に動員されて2年間をここで過ごした。1600年の家康の会津征伐では正宗は家康から上杉景勝への備えを求められた。1601年には、したたかにも国分家居城を整備し仙台城と改称し、城下町整備も行い仙台藩の初代藩主となった。享年70歳でこの江戸藩邸で食道噴門がんで終焉を迎え防腐処置の上、駕籠で大名行列で仙台に戻った。そのほか日比谷公園北側には隣に毛利家「長州藩上屋敷跡」、上杉家「米沢藩上屋敷跡」が警視庁方向に向かって並んでいる。  
「米沢藩上屋敷跡」は現在は法務省旧本館である。道路の角の植え込みに米沢市により江戸藩邸跡の碑が置かれている。上杉家は秀吉から1598年会津転封を命じられた直後、秀吉が亡くなり、上杉景勝と直江兼続は若松城ではない神指城の建設を開始したことで家康から謀反の疑いを掛けられて会津征伐に繋がった。その後謝罪したが会津など没収され出羽米沢30万石に減封となる。  
公園を出て警視庁前を通り桜田門外を右に眺めながら憲政会館の辺りの小高い「彦根藩上屋敷跡」に向かった。井戸の跡が保存されている。幕閣の中枢として城内では会津松平家・高松松平家と同じ将軍に最も近い席であった。直弼は藩主になると大老職に就き勅許を得ず日米修好通商条約に調印したことがきっかけとなり「桜田門外の変」につながった。藩邸からは直弼が雪の朝、登城したであろう途が眺められる。  
坂を下りて「有楽町線桜田門駅」で乗車し、市谷で都営新宿線に乗り換え「曙町」にて下車、いよいよ向かうは容保の誕生の地「美濃高須藩上屋敷跡」、高須藩は岐阜県南部に立藩し尾張藩の支藩となった。10代藩主松平義建の六男(母は側室古森千代)として1835年にここ江戸四谷土手の藩邸で誕生したのが容保である。尾張藩主や桑名藩主などを務めた高須四兄弟は歴史に翻弄されながら、容保は旧幕府側となり次男の慶勝は新政府側に分かれている。藩邸跡の現在の荒木町は花街として有名であったが見番跡には「とんかつ鈴新」があり、容保や四兄弟の詳しい話が聞けるそうである。  
四谷三丁目を通り御苑大木戸門の玉川上水の最終「大木戸水番所跡」や水道局新宿営業所の裏と横の記念碑を訪ねた。ここから神田川に合流する暗渠と「渋谷川吐水口」の南の水に分岐された。  
ここから新宿二丁目の「正受院」に向かった。戊辰戦争の若松城籠城戦で城内の婦女子を指揮した義姉の照姫と容保が埋葬されていたが、23年半後の大正6年、2人は若松の院内御廟に改葬された。松平家の墓の跡は晩年の容保のお世話をした会津藩士の野村家に与えられ、生涯独身だった松枝が埋葬されている。墓碑には今も花が飾られていた。野村家の墓に焼香して、晩年に小石川の自宅で肺炎で享年59歳でなくなった容保を偲んだ。廃藩置県翌年の明治5年斗南から帰り蟄居を許されたが家は困窮したそうである。その後、日光や上野の東照宮の宮司をつとめた。神号を「忠誠霊神」という。ちなみに家康の神号「東照大権現」を祀る東照宮が全国で500社を超える。  
参加者からは「都心は仕事で良く通ったものの、会津藩がここまで江戸から現在までつながっているのか、というあらたな発見になった」と言う声が聞かれた。

   齋藤仁(高20回)

第23回歩こう会

  

 保科正之開削の玉川上水が100万人の世界最大の江戸へ



11月6日日曜日、晴天に恵まれて、過去最多の合計37人の参加を得て、青梅線『羽村駅』に10時に集合し、受付ののち3班に分かれ、だいたいのコースを確認し、10時過ぎに出発した。
 まず玉川上水最初の橋『羽村橋』を渡り、すぐ『羽村堰下橋』という270mの橋で多摩川本流を渡った。羽村堰下橋は橋の両側ともに東京都羽村市で、橋の北東岸に多摩川から分水されたばかりの玉川上水が流れている。橋の上からは羽村堰と羽村取水口がよく見えた。高い橋の上からは広大な景色の中にも魚のはねる水面やシラサギの姿を眺めながら、柔らかな川風に吹かれ爽快な気分を味わった。 30分ほどで『羽村市郷土資料館』に着いた。ここでは玉川上水の歴史や構造などを見学した。在京会高同窓会会報の65号(7月)「保科正之が開削した玉川上水」にも紹介の通りであるが、全長43キロメートル、高低差はたった92mなので、途中に多くの桝を作り、流れを貯めて水面の高さを維持しながら勾配に沿って重力をきちんと利用して流していた。進んでいた技術力に改めて感心した。館内には徳川家康と功績により玉川姓を賜った玉川兄弟の名前は見つけたものの、家康から玉川兄弟につながる説明は省略されている。保科正之の名前の一言でも紹介されていればと思わずにいられなかった。正之は1651年より4代将軍家綱の補佐役として政治の責任を担っていた。玉川上水を作ると言い出した時、彦根藩の藩主で大老を務めていた井伊直孝は、「そういうものをつくると、幕府に反旗を翻した大名や敵が、上水を通ってすぐにこの江戸に入り込むことになりかねず、危険だ」と反対した。これは、すこぶる戦国的な発想であったという。しかし正之は「江戸城は天下の府城、その天下は民あってのこと・・・」と説いて玉川上水を開削させたのである。この時代は、ちょうど徳川が軍事中心の古い体制から平時の体制へと大きく切り替わる時期であった。しかし、戦国の名残をとどめた老中や重臣たちもまだ周囲にはいたのである。平和の時代においてまず問題は、100万人と過剰な人口に膨張した江戸の水不足に安心できる水をどのように供給するかという民意を汲むことであった。現在の東京の基礎になる江戸の繁栄を支えていくためには、健全な水の供給が重要で、上水道と下水道の管理をどうするかを正之は考えたのだが、「それでは、戦(いくさ)の際に不利になる」と発想する方が、当時としては普通かもしれない。同時代にロンドンは下水に無策であったために人口63万人と限界に来ていた、正之はそうではなくて、「民政」というものを意識しないと駄目だと先見の明を示した。もし正之の判断がなければ、今の私たちの水道蛇口は違ったものになって違う水を飲んでいたかもしれないのである。 玉川上水は高い土地を桝を作りわずかな落差でも流れるようにした。それで多数の枝分かれした途中の分水が可能になった。この高度な技術によって武蔵野台地の都市近郊農業を発展させたのである。また、この水で江戸城の西南地区の屋敷や町の発展に寄与した。このように正之の決断がなければ今の東京はないという想いの一方、博物館に正之の名前がなかったため、こだわりから少し長くなりすぎたので筆を先に進めよう。 さて、博物館の東屋で各自が用意した昼食をとり、簡単な自己紹介を済ませ、再び『羽村堰下橋』を渡っていよいよ目指している取水堰に着いた。玉川兄弟の像があり公園として整備されている。玉川上水として豊富な水量を多摩川の源流から呼び込む仕組みをみることができた。同時に本流の洪水の際には堰の木組み(投渡堰)を流し水が引いたら予備の投渡堰を入れるという370年前当時に賢い技術が使われていた。玉川上水は当時の高い技術と歴史上の価値から平成15年に文部科学省により国の史跡に指定された。今は東京都水道局の水門管理で維持されているのである。
 取水口を出発して上水に沿って歩いた。整備された林道には木々が紅葉し始めていた。川の水は澄んでいて底が良く見え、泳ぐ鯉も見えた。取水口近くは水量がかなり多い。取水量が多すぎるときは途中多摩川に戻されるしくみもあった。野鳥の姿やさえずりに癒されきれいな空気を吸いながら歩いた。途中で列の前後はかなり開いたが最前列を歩く人は後続を待ちながらゆっくり歩いた。
 途中、上水公園で水分補給をし、次の目的地、「嘉永」の蔵元「荒川酒造」に40分ほどで着いた。創業200年だけあって広く池のある立派な庭園の造形に見入った。休業日であったが住んで居られるオーナーにご挨拶いただいた。
 その後、JR福生駅まで30分ほど歩いた。午後2時過ぎに乗車してJR三鷹駅に30分ほどで着いた。南口から井の頭公園の手前までの約800mの道路は「風の散歩道」と呼ばれ、江戸時代の貴重な歴史的遺構として国の史跡に指定された玉川上水に配慮し落ち着きのある街路となっている。
 駅前から10分ほどで路傍の石の作家である山本有三の記念館(一時住んでいた洋館・三鷹市の管理)に瞬時、立ち寄り文化の香りを味わった。
 上水の深い両岸は樹木が生い茂り、野草の宝庫になっている。上水の中流部の三鷹付近は1948年38歳の太宰治が愛人と入水したというくらいの水量があったのだろう。今は自然環境の維持のため高度処理浄水なので水量はそれほど多くない。上水の下流はここから見事な緑道が整備されており、井の頭線富士見ヶ丘駅に近い浅間橋から暗渠になり、地下水路を流れ、高井戸駅付近の佃橋の上流で神田川に放流されている。もともとの玉川上水は新宿御苑四谷大木戸門付近まで来ており、現在は大木戸門の外側道路脇に最終地点の碑がある。
 山本有三記念館の後、「都立井の頭恩賜公園」に向かった。大正6年日本で最初の郊外公園として開園し、親しまれながら100周年を過ぎている名園である。まずは井の頭公園を形作る池の湧水点を目指して歩いた。ここは武蔵野三大湧水地として名高い。現在は湧水の量が少なくポンプで汲み上げているが、徳川家康が名水としてお茶を入れたことから「お茶の水」と名付けられた。なお今回は歩いていないがJR御茶の水駅名の由来は第2代将軍・徳川秀忠の時代に、その北側にあった高林寺の境内から泉が湧き出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、「御茶ノ水」と呼ばれるようになったといわれる。井の頭恩賜公園まで2万歩近くなったが さらに公園東端の神田川の原流・起点まで歩き通した。まさに上水にこだわった歩こう会になった。脚に自信をつけた人の一方で、日頃からの運動不足を実感するひともいた。その後は日暮れも迫り5時頃吉祥寺駅前の「戎ビアホール」に集合した。同窓のよしみに大先輩の上機嫌も相まって話が弾み、あっという間であったが7時にお開きとした。

   齋藤仁(高20回)

第22回歩こう会

  

 会津藩士の墓を巡る


斎藤 仁(高20回)

 11月7日日曜日、暑からず寒からずの中、同窓生を中心に男女24人が「會」の旗印のもと10時3分に横須賀市浦賀駅に集合し,ボランティアの「よこすかシティガイド」の方々4人と合流した。さっそくバスで江戸時代からの"浦賀の渡し"西岸に着く。渡しは市営道路になっている。旧浦賀ドッグ跡や寄港中であった再現された咸臨丸を眺めながらエンジンではあるが風情豊かな渡しを楽しんだ。あっという間に東岸へ上陸、バスで鴨居地区に向かう。鴨居は小さな湾に面した地区で会津藩が陣屋を設置した場所である。会津若松市と横須賀市の縁は深い。三浦一族の佐原義連(よしつら)が1189年、源頼朝により会津に所領を与えられ、その子孫である芦名氏は会津の黒川城を本拠地として、滅亡する1589年まで約400年に渡り会津を治めた。
横須賀市西部には芦名が地名として残っている。その後220年を経て、江戸時代後期1810年から10年に渡り幕府より江戸湾防衛任務と3万石を与えられ、命を受けた会津藩は鴨居と三崎の地に陣屋を構えた。三浦半島のほぼ全域が会津藩領だったそうである。任務につくと観音崎と浦賀の燈明堂近くの平根山へ三浦半島で最初の台場を造り、守りを固めた。この任務が永遠に続くものと思っていた会津藩士は一家をあげて横須賀に移住してきたので、鴨居には藩校の「養正館」も設けられ熱心な子弟教育も行われたそうである。ちなみに江戸湾警備についた他の藩はすべて単身赴任だったそうである。武士や足軽およそ800人、家族を入れると千数百人が赴任していた。東京湾で海防対策が取られたのは、老中松平定信による寛政5年(1793)の沿岸巡視からで、最前線が安房の洲崎と城ケ島を結ぶラインで、警備の主眼は上総富津岬と三浦半島観音崎を結ぶわずか6キロメートルのラインの南側で進入を阻止する体制であった。
 三浦半島には会津藩士の87基の墓碑がある。2005年会津若松市と横須賀市は友好都市提携を結び、2015年には10周年を記念して会津若松市市長以下88人の市民訪問団が慰霊の為、三昧堂に赤松の記念植樹を行い交流を深めている。
 最初に訪問した西徳寺(浄土宗)では1週間前の10月31日に「三浦半島会津藩士顕彰会」によって法要がとりおこなわれたそうである。1968年から50年以上法要を営んでおり、近くの能満寺(曹洞宗)と交互に行われている。7日当日は西徳寺では十夜会の法要の為、堂内ではお祈りの太鼓が打ち鳴らされていた。堂内では会津藩士の位牌に焼香することができた。大きく立派な位牌であった。そのあとは裏の「若松屋」(会津藩陣屋御用達)の高橋勝七の大きな墓をお参りした。「若松屋」は横須賀中央駅周辺の海面を埋め立て造成した。現在も「若松町」である。その後、西徳寺を少し登った裏山の18基の会津藩士墓地をお参りした。さぞや望郷の念に満ちていたであろうとご苦労を偲んだ。次の能満寺には会津藩士の墓が10基あり綺麗に寄せていただいている。会津の方にはよくお参りしていただいているそうで、どちらに行っても会津藩士の墓の説明板があり、お寺の丁寧な慰霊と友好都市の横須賀市民のご奉仕やご厚意がうれしい限りである。 お昼には地元の海鮮丼をいただき一休み。午後は横須賀市が史跡に指定している腰越地区の三昧堂(さめど)まで歩いた。会津藩士と家族の墓の23基がきれいに整備されていた。鶴ヶ城の写真と友好親善交流会、会津若松市長の訪問慰霊も行われたと説明が残されている。
 その後たたら浜にて集合写真を撮り二つのグループ、砲台や観音埼灯台を巡る健脚コースと海岸線を楽しむコースに分かれた。健脚コースは砲台と日本最初の洋式灯台である観音埼灯台を巡る。観音埼灯台は名称が埼の字で土編になる。大砲はカノン砲や榴弾砲で江戸湾を通過する船の攻撃に十分な威力を有していた。海岸線コースはすぐ目前に迫る房総半島との間を行きかう大型の貨物船に目を奪われている間に観音崎園地となり、各班は合流した。地元の人は行きかう大型の貨物船を眺めて楽しむそうである。目的の船の通行時間まで調べて船の写真を楽しむ人もいるという。夏のたたら浜は海水浴でにぎわうそうであるが海岸を離れると流れが急らしい。その後バスで馬堀海岸へ移動しガイドさんたちにお礼してお別れした。雨も降らず、念願の地を楽しんで、京浜急行の快速電車に揺られて全員無事に帰途に就いた。都心からは海岸線コースでは往復で一万歩足らずであった。

(幹事:斎藤仁、間部英司)幹事:斎藤仁、間部英司

第21回歩こう会

  

 奥多摩「むかし道」を歩く


〜急な登り坂で現れた
    小河内ダムと紅葉〜
伊藤俊郎(高12回)
 今年で21回目となる歩こう会は、11月8日(日)に奥多摩「むかし道」のトレッキングとして実施した。コロナ過の影響で多くのイベントが中止となる中、この歩こう会に参加できたことはうれしい限りである。
 奥多摩には奥多摩三山の御前山、三瓶山、大岳山そして御岳山などの名山があるが、今回はコロナ禍での会員の安全を考えて、コースは標高差の少ない比較的平坦で、200年の歴史のある古道「奥多摩むかし道」を選んだ。コースは奥多摩駅から奥多摩湖までの「むかし道」9.4 qを歩き、帰りは奥多摩湖から奥多摩駅までバスで戻るというものである。当日は曇り、暑くもなく山歩きには絶好な日和で、奥多摩駅に10時に集合。駅前は少ない我々と同様ハイキングする人で混んでいた。歩こう会は昨年13名の参加で、今年も同人数程か…と思ったが7名のみで、うち6人は昨年も参加した人であった。
 伊藤会長より点呼と紹介、そして会長が用意したお菓子と地図の配付を受けた後に駅前を10時半に出発した。しばらくして「むかし道」に入り、道幅が狭い登り道を進んだ。「むかし道」は、旧青梅街道と呼ばれた道で、生活物資、木炭の生産物の交易で支えられていて、古い民家や道祖神、馬頭観音など江戸時代の面影が残り、変化に富んだ見どころが多い山道で、草が茫々とし時の流れを感じた。また「むかし道」には、他の道との交差・分岐に標識があって、「奥多摩湖までXX q」、「奥多摩駅までXX q」と歩いた道のりが分かる表示がされて、ハイキングコースとして分かり易い。
 道と並行して小河内ダム建設時に資材を運んだ鉄道の廃線跡があり、道端のマメ科巨樹、お地蔵様、耳神様などを見ながら山歩きを続け、途中 不動の上滝で40分程の昼食をとった。 渓谷に沿ったこのコースは2つの吊り橋のそばを通るが、「3人以上で渡らないで下さい」と表示があった。手摺りは使えず上下に大きく揺れてスリル満点、眼下は紅葉に色取られた渓谷美の絶景で恐る恐るシャッターを切った。 コースの終わり近くに最大の難所「西久保の切り返し」があり、標高差160mの急勾配の細道を約30分かけて登った。“老人”にはきつく途中休みを入れながら、昔の人は実に健脚だったと感心した。さらに30分ほど足場の悪い登山道を歩いていると、突然小河内ダムと奥多摩湖が視界に飛び込んできた。ダムは紅葉に囲まれ、絶好の撮影スポット。普段写真を撮らない人でもきっとスマホで写真を撮るところである。
 その後 片側は急な崖下で手摺付きの細い登り道を注意して進み、やがて幅広い舗装道路に出た。約20分歩き、目的地の小河内ダム.奥多摩湖到着は15時40分頃で予定より約1時間40分も超過した。帰路は奥多摩湖発16時20分のバスで奥多摩駅に向かい、駅前で無事帰着を確認。丁度 最後のホリデー快速おくたま号間に合って皆乗車し、各自帰宅の途についた。思い出に残る山歩きであったので、参加願えなかった方にもお勧めしたいコースです。 終わりにあたり、伊藤会長は20年もの長期にわたり歩こう会の企画から連絡、準備、写真送付まで一手に引き受けておられ、感謝申し上げたい。
       文責 西澤重雄(高18回)、斎藤剛(高22回)
【追稿】伊藤俊郎(高12回)
 今回は、特に最後の高低差160m、歩行920mの難所では、ステッキの手助け、歩行指導があったので登れましたが時間を超過させてしまい、みなさんのお陰で無事踏破できましたことに感謝申し上げます。参加者を紹介します。(写真左から樹齢200年の槐の木の下で)○早めに会場入りしコースを下見するなど写真中心にお世話頂いた(高18)西澤重雄さん。○ベテラン山男の指導力を発揮された最若手の大須賀豊さん(高28回)。○休息時にバナナを配り体力補強をしてくれ細かい指導を頂いた(高11回)櫻井公夫さん。○敷物など細かい気配りを頂き経過時間を記録頂いた斎藤剛さん(高22回)○話好きで話題が豊富で好奇心旺盛な鈴木秋雄さん(高16回)。○コースを先導頂いた強い脚力の大槻博さん(高8回)。○体力低下を実感した伊藤(高12回)。
 今後は、間部さん、渡部真一さんを加えた若手チームに委ねますので、ご期待下さい。
  
  
  

第20回歩こう会報告

  

高尾山を満喫


 第19回歩こう会は,2019年11月11日に絶好の好天に恵まれるなか、世界一の登山者数を誇る標高599mの「高尾山」を満喫できた。
紅葉を愛で、独特の植物を観察しながら、佐々木君紹介の女性2人のコースガイドの案内で、参加8名は和気あいあいにトレッキングを楽しんだ。
コースはケーブルを利用する「びわ滝コース」、また昇降歩きの「稲荷山コース」と7コースの探求路がお楽しめるので、 みなさんも四季折々に訪ねて欲しい高尾山です。山頂からの房総半島、江ノ島、富士山を見渡す景観はすばらしかった。

第19回歩こう会報告

  先ず過去18回の歩こう会の歩みを振り返ると、先輩と後輩の交流の輪を広げ、またそれを楽しむ同窓会の行事として、役割を担ってきました。会員の要望を聴いて、川越、鎌倉、丹沢、国分寺、高尾山、昌平坂学問所、上野谷根千、横須賀、筑波山などを訪ねてきました。その記録を見ると、先立たれた先輩を思い、支えてくれている諸兄に感謝しつつ、若手会員の参加を如何に増やすかをみんなで考えることを課題として提起したいと思います。  さて今年19回を迎えた歩こう会は10月9日(月)体育の日に14名の参加でしたが、旧東海道の品川宿から大森までの約7キロを正味5時間かけてゆっくりのんびりと旧東海道中の名跡のウォーキングを楽しみました。昼食は蕎麦屋さんに個別に注文していたメニューを食し、この行事をもっと早くから知りたかった、足が少しつったなどみなさんそれぞれに楽しい団欒の語り合いと休息の60分を過ごしました。  参加者は、(高8)大槻、佐藤、松江さん(高10)兼子さん(高11)桜井さん(高12)五十嵐, 伊藤、遠藤、志波さん(高16)本名さん(高21)佐々木さん(今回の進行役)。それに会女から(12回)阿久津、堀川さん(14回)塩谷さんが加わり、14名でした。  今回のコースは地元品川のカイドさんの案内で辿リました所を纏めました。事前調査で訪れた④と⑥は今回不案内でしたが会員読者の参考に紹介しました。
①品川駅に9時半に集合した全員が互いに出会いを確かめ写真を撮って品川高輪口を出発。 
②ペルー来航に対峙した御殿山下台場の砲台跡は品川沖へ陸地が埋め立てられて、当時の入り江の境の台場小学校傍にあった。境を辿ると海苔、あなご、えびなどの魚介類を採る漁師集落があり、また利田神社には鯨塚があり、迷い込んだ鯨が江戸住民を驚かせたことを伝えている。 
③品川宿は参勤交代の大名が旅の垢を落とし旅装束を調えて江戸屋敷を往来する基点であった。当時の花街の様子や旅人の憩いの場となった家並みの説明で当時を偲ぶことが出来ました。  
④東海寺は不案内でしたが家光が沢庵和尚のために建立した臨済宗の広大な寺があります。  
⑤品川本陣跡の聖公園は明治天皇が京都から行幸の時に滞在したところでした。  
⑥品川神社は江戸民が富士山を眺めた富士塚があり、不案内でしたが板垣退助の墓地がある。  
⑦荏原神社は七五三詣でがあり、祭りでは海中御輿渡御が行なわれている。  
⑧茶屋釜屋跡は新撰組土方歳三や旅人が休憩をしたり迎えの家族と宴会を開いたところ。  
⑨品川(しんせん)寺は弘法大師の古刹で大仏像や梵鐘があり火渡りの荒行を行なっている。 
⑩立会川には土佐藩下屋敷と坂本龍馬像があり浜川に)は沿岸警備の土佐藩の砲台跡とがある。  
⑪街道には多くの寺社があり七福神めぐりが出来るほか各宿場から贈られた街道松がある。  
⑫浜川橋は鈴が森刑場に送られる罪人とその家族との分かれの場所となり泪橋と呼ばれた。  
⑬鈴が森刑場は八百屋お七、白井権八などが処刑されたところ。  
⑭品川水族館は海底の水槽やイルカショーが楽しめるが入館する前に4時にここで解散をした。 
 
 参加頂いた皆様に感謝申し上げますと共に次回も参加をお願い致します。    (高12回 伊藤俊郎)

第18回在京同窓会歩こう会は筑波山登山を実施しました

 平成28年度の歩こう会は10月9日(日)昨年悪天候のため中止になった筑波山登山に再挑戦しました。 山登りということもあり、参加の皆様の体調、健康面等も考慮し時期をいつもの11月上旬から天候の晴れる確率の高い10月の上旬の三連休に繰り上げて開催しました。
 今回の参加者は、佐藤幸雄(8回)さん、兼子八郎(10回)さん、猪股英光(11回)さん、伊藤俊郎(12回)さん、本名正二(16回)さん、鈴木謙(28回)さん、小生の計7名です。 午前8時45分つくば駅集合の時点では天候は土砂降りの状態でしたが、バスでつづじヶ丘の登山口へ到着したころには雨も上がり10時20分くらいから登山開始。足元に注意しながらゆっくり時間をかけて11時10分頃女体山山頂に到着しました。
 途中何か所か厳しい岩場もありました。親子連れも多くなかには子供をおぶったお母さんも。子供の体重をきいたら10kgくらいとのこと。ほほえましかったのと女性の強さの一環をみました。まだまだ日本も捨てたもんじゃないと感心しました。 そこからケーブルカー山頂駅に移動し、十分昼食休憩をとり午後1時頃希望した4名で男体山山頂へ。10分程度で到着しました。かすかに雲の切れ間に富士山を見ることもできました。
 下山は、ケーブルカーで筑波山神社へ。 来年の開催については、下山後つくば駅前での反省会を兼ねた食事の際いろいろとご意見をいただきました。 また、今回参加できなかった皆様のご意見も何らかのかたちでお聞きする機会を設け、早めに計画をまとめてご報告させていただきできるだけ多くの参加を募るためにホームページ掲載、会報での案内等告知手段を展開したいと思います。 多くの会員の皆様の参加協力をお願いいたします。      実行委員 天野康弘(29回)