会報の表紙を飾った写真
 これらの写真は、会報の表紙に毎号掲載されている写真で、会津若松在住の吉川直佑氏(高13回)が撮影されたものです。
 53号以前の会報に載っている写真はモノクロですが、吉川氏から送られてきたのはすべてカラー写真でした。会報では味わえなかったこれらのすばらしい写真をご覧ください。画像をクリックすると拡大します。プロ並みの腕前をご堪能ください。
 ご提供いただいた写真はどれもMB単位ですが、ここに載せた写真はピクセル数を落としています。

「天寧彼岸獅子」  第64号(2021年12月)に掲載
 春の彼岸入りとともに三匹の獅子たちが、街中に姿を見せるとようやく「會津の春・到来!」です。  彼岸の中日の二十日、会津若松市の鶴が城本丸、阿弥陀寺など六ヶ所で、春の訪れを告げる「彼岸獅子舞」が繰り広げられた。  先祖の霊を慰めながら五穀豊穣や家内安全を祈願し、大勢訪れた市民と観光客らを喜ばした。  写真の「天寧獅子舞」は享保九年下柴(喜多方市下柴地区)から伝承され、会津藩士達の共鳴を得て研磨、武道型が鋳込(いこ)まれ、独特のものとなる。曲目は十余種あり、三人舞で太夫獅子、雌獅子、雄獅子の三体が連れ舞い、「弓潜り」などは一人舞で行います。     高13回 吉川直佑

「アーチ三兄弟」  第63号(2020年12月)に掲載
近年JR只見線沿いの景観の素晴らしさに人気が高まり、その中に「アーチ三橋(兄)弟」がある。三つのアーチ橋が一つのファインダーに重なって見ることができる視点場は、国内でここだけです。       表紙の写真は、JR只見線をキハ一二〇型の新しい車両が投入され今通過しようとしている瞬間をカメラに納めたものです。  新緑の美しい林の中を絵に描いた様に並んでいる三つのアーチ橋を簡単に説明すると、まず真中は「長男」の昭和一六年使用開始のJR只見線「大谷川橋梁」今まさに新型キハ一二〇型が通過中。一番下は「二男」の昭和三二年供用開始の「宮下橋」県道小栗山、宮下線。一番上は「三男」の平成元年使用開始の「新宮下橋」国道二五二号線バイパス工事で架設された橋梁で、長男二男のアーチ橋を考慮して、三男もアーチ橋が採用、その事によって唯一無二のアーチ三橋(兄)弟が出現しました。  現在日本はコロナ禍で、インバウンドが激減中ですが、三〜四年前にはJR只見線の会津若松駅〜川口駅間の各駅周辺には国内客は云うに及ばず、中国・香港・台湾の大勢の観光客が押し寄せ大盛況でした。観光客への期待が大きい会津では、来訪者の数が少しづつ回復することを願うばかりです。     高13回 吉川直佑

「輝きの季節」  第62号(2020年6月)に掲載
スイス・アルプスを思わせる南会津金山町の大志集落。会津地方を流れる只見川沿いにある。秋晴れの下、刈り入れを終えた田んぼの傍らをJR只見線が走る。二〇一一年七月の新潟・福島豪雨で普通となっている只見線の会津川口〜只見駅間(27・6キロ)について鉄路復旧で大筋合意していたJR東日本と県は、二〇二一年度中に運行を再開させる決定を明らかにし、現在工事が進められている。  写真は只見線の「大志集落」と「川口駅」間の撮影スポットを悠然と進む列影を近くの山から俯瞰し撮ったものである。  新型コロナウィルス感染症が沈静化して、日本全国が平常に戻り観光会津の賑わいが再び戻って来ることを願っている。     高13回 吉川直佑

「冬の勇姿」  第61号(2019年12月)に掲載
会津の秀峰磐梯山に向かって飛び立ち、天空を滑空する白鳥は、稜線の彼方を飛翔するかの如く駆け抜ける。そんな勇姿に思わず「凄い凄い」と歓声を上げながら私は懸命にシャッターを切った。  400 oの望遠レンズでの撮影にどうにか収まる15羽の白鳥の勇姿は、好天気と運が味方してくれた。ゴルフでホールインワンを達成した気分である。  新鶴の出戸田沢沼から飛び立ち、磐梯山に向う姿を捉えられたのは幾年も通い続けて初めての成功である。白銀の世界に向って、静寂の極みの中に、やがて隊列は緩やかに消えて行った。    吉川直佑(高13回)

「復旧に応援 只見線」  第60号(2019年5月)に掲載
 二〇一一年七月の新潟・福島豪雨で不通となっている只見線の会津川口~只見駅間(27.6㌔)について鉄路復旧で大筋合意していたJR東日本と県は、二〇一七年六月基本合意書を締結し二〇二三年度中に運行を再開させる目標を明らかにした。  JRや国との交渉に奔走してきた内堀知事は、只見線の復旧は「奥会津地方の活性化の武器・観光振興の柱」と感慨深げに語った。  写真は只見線の「大志」と「川口駅」間の撮影スポットを悠然と進む列影を撮ったものである。この撮影スポットが大変評判になり国内をはじめ、海外から、特に台湾、香港等から多勢の観光客、カメラ愛好家が詰め掛け賑わっている。
吉川直佑(高13回)

「左下り観音堂」  第59号(2018年11月)に掲載
平成二十八年文化庁により日本遺産に登録された「会津三十三観音めぐり」第二十一番札所左下り観音は、岩を切り開いて造られた三層懸造りのお堂で、五間四方、四丈八尺、京都の清水寺に似た造りのこのお堂は三十三の札所の中でひときわ異彩を放つ。  天長七年(八三〇年)僧・徳一による建立で、延文三年(一三五八年)芦名氏の家臣、富田祐義によって修築された。  ご本尊は聖観世音。ご本尊の他に通称「頸無観音」と呼ばれる石像の秘仏が安置されている。また会津最古の学校、稽古堂の主となった学僧岡田如黙が滞在したこともあるという年代を経た観音堂だが、その特異な外観から訪れる人が後をたたない。
吉川直佑(高13回)

「プロジェクションマッピング」  第58号(2018年6月)に掲載
 会津若松市の鶴が城を映像で彩るプロジェクションマッピング「はるか二〇一八-戊辰の風・花の雲」は3月23日、三年ぶりに開幕した。福島さくらプロジェクトの主催、市の共催。戊辰戦争百五十周年や東日本大震災からの復興などをテーマにした幻想的な映像が天守閣を包み、二万人を超える市民や観光客らが見入っていた。橋本大佑さん映像を制作し、天守閣の白壁に花々がかれんに舞う動画映像に合わせてシャッターを切りました。
 吉川直佑(高13回)

「新緑の名瀑」  第57号(2017年11月)に掲載
胃腸病などに効く温泉として名高い中ノ沢温泉から約4キロ入った達沢地区から、さらに不動川沿いに鬱蒼と繁る木々の中をしばらく進むと、眼前に水音高く流れ落ちる高さ10m幅16mの滝が現れる。これが不動滝で滝に不動尊が祀られており、滝の周辺と参道の沢にはトチ、サワクルミなどの木が繁茂し夏でも涼しい別天地。  その昔は修験道の道場のひとつ垢離場(こりば)であったといわれるこの滝は、昼なお暗いほどの木々におおわれ荘厳なムードにつつまれ、豪快な音をたてて流れ落ちる水の音に心を澄ませると、しばらくは時のたつのも忘れてしまうほど。  河の中に入り倒木にピントを合わせて撮ってみました。

「名城の夜」  第56号(2017年6月)に掲載
 関東東北において近世の築城最盛期に構築され五層白亜の天守を誇ったのは江戸城と若松城だけである。  戦国期以来、城郭を権力の象徴として見た場合江戸城は将軍の居城であったが、会津は秀吉の天下統一事業の拠点であり、若松城は秀吉の代理執行者である蒲生氏郷公にふさわしい城郭であった。  この写真は西出丸の濠に面して唯一建築が許可された6階建ての学習塾(城南スクール)の屋上に上がらせていただいて、所有者の許可を得て撮影した一コマである。  まさに春爛漫「染井吉野」の桜が満開に咲き誇り風もなく西出丸の濠に美しい姿を写している様は、誠に見事!まさに息をのむ美しさである。

「新緑賦」  第55号(2016年11月)に掲載
 標高1886mの磐梯山、天高くそびえる美しい山容から「会津富士」とも称される秀麗な山容を見せる。一方、何度も噴火を繰り返すことから「病悩山」とも呼ばれ、魔の住む山として恐れられてきた。弘法大使空海が魔を退治して山を鎮めたという伝説も残る。
 明治21年(1888年)7月には、山体崩壊と岩なだれを伴う大噴火を起こした。北麓の裏磐梯に点在する大小300余りの湖沼は、その時に川がせき止められて誕生したものだ。
 当時「100年は自然が戻らない」と言われた荒野は現在、豊かな森が広がり、水と緑がきらめく美しい避暑地へと姿を変えている。今年の初夏、中瀬沼の小高い丘より撮影した一コマである。

「彼岸獅子」  第54号(2016年6月)に掲載
 春の彼岸入りとともに三匹の獅子たちが、街中に姿を見せるとようやく「會津の春・到来!」です。
 彼岸の中日の二十日、会津若松市の鶴が城本丸など六ヶ所で、春の訪れを告げる「彼岸獅子舞」が繰り広げられた。
 先祖の霊を慰めながら五穀豊穣や家内安全を祈願し、大勢訪れた市民と観光客らを喜ばした。
 写真の「天寧獅子舞」は享保九年下柴(喜多方市下柴地区)から伝承され、会津藩士達の共鳴を得て研磨、武道型が鋳込(いこ)まれ、独特のものとなる。曲目は十余種あり、三人舞で太夫獅子、雌獅子、雄獅子の三体が連れ舞い、「弓潜り」などは一人舞で行います。
 今回よりカラー写真で掲載され撮影者として大変喜んでおります。

「冬の使者」  第53号(2015年11月)に掲載
 猪苗代町の三条潟の猪苗代湖に、今年は例年より少し早めにコハクチョウが飛来した。例年より一週間程度早いという、シベリア方面から南下してきた「冬の使者」は湖面でゆったりと羽を広げ、長旅の疲れを癒している。
 写真の白鳥は飛来後2羽3羽と群れをなして周辺の上空をゆったり偵察飛行をはじめる。来年3月頃まで滞在する猪苗代湖の様子を、すみずみ迄知っておこうと時間をかけているのかもしれない。
 猪苗代町翁島にある「野口英世記念館」の遥か上空を仲良く飛翔する白鳥を六〇〇ミリの望遠レンズ(㈱ニコンより借用)を用意して、半日がかりで撮影した。
 雪の多い猪苗代は冬に入ると晴れの日が続くのがめずらしく、撮影の成功にはたまたま運も味方してくれたのだ。

「鶴ケ城プロジェクションマッピング」  第52号(2015年6月)に掲載
 今年、再建五十年を迎えた会津若松市の鶴ケ城天守閣を映像と音で幻想的な世界を演出する光のイベント「鶴ケ城プロジェクションマッピング」(天守閣の白壁に映像を投影する)は、三月十九日から二十二日まで繰り広げられた。三回目となる今作は、コスチューム・アーティストのひびのこづえさんがデザインした「赤べこ」や「八重桜」などが映しだされた。音楽は前回に続き大友良英さん(福島育ち)が手がけた。
 東日本大震災、東京電力福島第一原発事故の発生から四年。県民の力、県外からの支援が復興の道をつくっている。復興に向けて多くの人がいろんな活動をしている、その中で福島には新しい文化が生まれると思う。この[「鶴ケ城プロジェクションマッピング・はるか」が今後も続いて、福島のお祭りの一つに定着すればいいと期待を込めてこの写真を撮りました。

「大内宿」  第51号(2014年11月)に掲載
 南会津の下郷町には江戸時代の宿場の面影を色濃く残す大内宿がある。この宿場を通る街道は会津西街道(会津側からは下野街道)と呼ばれ、かっては参勤交代の要路として会津藩祖・保科正之公、二代正経公、三代正容公がこの街道を通って参勤している。会津若松と日光今市を結ぶ重要な役割を果たしていた。現在は「重要伝統的建造物群保存地区」として国の保護を受け、街並みはほぼ完全な形で保存・再現されており、観光客に人気のスポットとなっている。毎年2月の第2土曜日、日曜日の2日に渡って雪祭りが開催され大勢の観光客で賑わう。夜は雪灯龍にロウソクが灯され幻想的な雰囲気を醸し出す。
 やがて雪祭りの人影もなくなり、夜更けの「大内宿」を撮ってみました。

「会津絵ろうそくまつり」“製法はどこで出来ても会津蝋”  第50号(2014年6月)に掲載
 江戸時代につくられたこの川柳にある通り、当時の江戸で使われていたろうそくは、その多くが会津産といわれていました。
 その歴史は古く500年ほど前の宝徳年問、時の領主芦名盛信公により、ろうそくの原料である漆の栽培が奨励されたことに始まった、と云われています。
 その後、歴代藩公の庇護を受け技術の研鑽を重ね、会津絵ろうそくの名は広く知られるようになり、当時の婚礼の際には一対の絵ろうそくが灯され、それが「華燭の典」の語源ともなりました。
 また花のない会津の冬には、仏壇に供える花の代わりに絵ろうそくを飾るようになったといわれています。
 絵ろうそくまつりは決して華やかなものではありませんが、会津に住まう人問にとって長く厳しい寒さの続く冬、ろうそくの灯りは先人への想いそしてふるさと会津への想いをやわらかく照らし続けるのです。

「想いを馳せる」  第49号(2013年11月)に掲載
 中秋の名月の9月19日、県内は高気圧に覆われ夜空にくっきりと満月が浮かんだ。「八重の桜」人気で多くの観光客が訪れ復興のシンボルとなっている鶴ヶ城でも、市民らがお月見を楽しんだ。真っ白な天主閣が柔らかな光を浴びて幻想的な姿を見せる。 ドラマの主人公新島(山本)八重は開城の前夜、三の丸雑物庫の白壁に歩み寄ると髪に刺した簪を手にし、ゆつくりと文字を刻みつけていった
   あすの夜は いづくの誰かが ながむらむ
   なれしみそらに のこす月かげ
と詠んだ八重も同じような月を見ていたのかもしれないと当時に想いを馳せて静かにシャッターを押す

「聖花」 会津美里町・龍興寺  第48号(2013年6月)に掲載
 表紙写真のタイトルを「聖花」としました。中国の先人は、蓮の花を花の「君子」として讃え、聖人君子とは学識人格ともに優れ、徳行のそなわった人、まさに故川島度守氏を偲び聖花を捧げるといっ思いで表現しました。
 龍興寺は徳川将軍三代に仕えた天海僧正が十一歳で出家した寺として知られており、さらに蓮池の「華芳園」には中尊寺金色堂須弥壇の下から発見された八百年前の種子より開花した「中尊寺古蓮」が七月上旬より咲きはじめ、神秘な香りと共に水面を優雅に彩ります

「八重の城」  第47号(2012年11月)に掲載
 平成師年の大河ドラマは会津の武家の子として生まれ育った新島(旧姓山本)八重を主人公とする「八重の桜」である。
 「八重の城」の写真は、八重の生まれた鶴ケ城の西米代四之町の方向から撮影したものでどこかに寂しさの漂うしかも「威風堂堂」とした城をイメージして撮ったものです。
 二つの山河で直木賞作家となった中村彰彦氏が、この秋文藝春秋より出版される予定の「幕末会津の女たち・男たち・山本八重よ銃をとれ」の新刊で、氏の推薦で「八重の城」の写真を装丁(表紙)に採用されることを申し添えます。

「七日堂裸まいり」  第46号(2012年6月)に掲載
 柳津町の福満虚空蔵蒋薩円蔵寺では一月七日夜、伝統の奇祭「七日堂裸詣り」が行われ、雪に包まれた境内は男たちの熱気で沸く。
 只見川の川底に住む竜神から手に入れた「宝照の玉」を守るため人々が集まった―とされる伝説にちなんで受け継がれている祭り。午後八時半に鳴らされた鐘を合図に、下帯姿の男衆が、近くの旅館などからはだしで本堂の菊光堂に集結。冷水で身を清めた男衆は、大鰐ロを目掛け打ち綱を競い合ってよじ登り、一年問の無病息災や祈願成就を順っ勇壮な祭りである。

「難った幕末の鶴ケ城」  第45号(2011年11月)に掲載
 今春、鶴ケ城の瓦が赤瓦に葺き替えられました。
 昭和四十年の鶴ケ城再建当時は蒲生時代の黒瓦が用いられましたが、その後、史跡若松城(鶴ケ城)の整備は、江戸時代末期の姿に統一して行う方針が定められ、平成十三年に復元された南走長屋、干飯櫓では、取り壊し当時の姿と同じく屋根が赤瓦で葺かれています。天守閣が再建されてから約半世紀を数え、今年、鶴ケ城・天守閣が全て赤瓦に葺き替えられたことで、戊辰戦争当時の姿により近づくことになりました

「樹霜」  第44号(2011年5月)に掲載
 朝の冷え込みが、日増しに厳しくなる2月。裏磐悌の北塩原村、曽原湖では木々に樹氷ができる。すっかり葉が落ちた細い柱が白い衣に覆われ、朝の陽光にキラキラと輝く。辺りは冷たい空気がビンと張り詰める。吐く自心は白く周囲の山も青白く見える。“樹覇”と言われる樹氷の一種で、夜間、放射冷却した樹木などの表面に空気中の水蒸気が見華し、氷の結晶となって付着したもの。冬の問、数回起こるきわめて珍しい現象である。

「伝統を現代に伝える」嘉永蔵  第43号(2010年11月)に掲載
「末虜」を醒造する一八五〇年創業の酒蔵で、医聖野口英世と母ンカも愛した「嘉永蔵」。棟の端(はな)に取付けられた鬼瓦〈おにがわら)が時代を見つめてきた。古い蔵を会場にして、大喜利寄席が開催され、ジャズコンサート等も好評で土名。「蔵の白壁」に、チャポひばの濃緑色の葉が活き活きと映る今も昔のままの温もりを伝える会津風物詩のひとコマである。

「天鏡閣  第42号(2010年4月)に掲載
 天鏡閣は明治四十(一九〇七)年八月有栖川威仁親王が東北を旅行した際、磐梯の山々と猪苗代湖の風光の美しさに魅せられ、明治四十一年に別耶として建設に着手同年八月ルネッサンス風様式の洋館として完成する。九月に当時の皇太子だった大正天皇が五日間滞在し「天鏡閣」と名つけられた。
 天鏡閣は明治末期の本格的な洋風建築としては全国的にも数少なく昭和五十四年二月、貴重な「ふくしまの近代遺産」として国の重要文化財に指定された。冬晴れの抜けるよっな青空の下、凛として立つ天鏡閣を撮ってみました

「干し柿と酒林」  第41号(2009年11月)に掲載
 寒い風が吹く頃、酒造りがはじまる。造り酒屋の入口の幹先に「干し柿と酒林」が吊してある。
 酒林は新酒が出来上がった時の印に軒先に掲げた。これは、杉の葉を束ねて球状にし、軒先にかけて造り酒屋の看板としたもの。
 渋柿は寒い風に当たり、乾いては甘昧を増していく。
 この造り酒屋は、戊辰戦争の混乱が収まりつつあった明治の中頃、門田町の南に位置するーノ堰で創業した「高橋庄作酒造店」(高13回)である。
 未だに残る懐かしい「会津の風物詩」のひとこまである。

「大内宿」  第40号(2009年4月)に掲載
 南会津の下郷町には江戸時代の宿場の面影を色濃く残す大内宿がある。この宿場を通る街道は会津西街道(下野街道)と呼ばれ、かつては参動交代の要路として会津藩祖・保科正之公、二代正経、三代正容公がこの街道を通って参勤している、会津若松と日光今市を結ぶ重要な役割を果たしていた。現在は「重要伝統的建造物群保存地区」として国の保護を受け、街並みはほぽ完全な形で保存、再現されており、観光客に人気のスポットとなっている。

「よみがえる、慧日寺金堂」  第39号(2008年11月)に掲載
 平安時代に最澄や空海と並び称された高僧徳一が開いたという磐梯町の慧日寺。国指定史跡の寺院跡は壮大な伽藍跡を今に伝え、当時の奈良や京都に匹敵する仏教文化が会津にあったことを物語る。その象徴的な建造物として、町が復元作業を進めていた「金堂」が今年四月に完成した。国の指定を受けた古代寺院跡で中心的な建物が復元されるのは全国でも初めて。多くの人々の熱意によって、埋もれていた歴史に再が光が当たり、往時をしのばせる金堂が千二百年の時を超えて今、よみがえる。仏都会津に新しい象徴が誕生した。

「猪苗代湖・しぶき氷」  第38号(2008年4月)に掲載
 猪苗代町の冬の風物詩として知られる猪苗代湖の「しぷき氷」。強風で打ち寄せられた波しぶきが樹木などにかかって凍る現象で、一年で寒さが最も厳しい一月から二月にかけて姿を現す。
 遠浅な湖北東の天神浜付近に多く見られ、大きさ、形ともさまざま。中には高さ三メートルを超す巨大なしぶき氷も出現し、厳しい冬がつくり出す氷の芸術作品が訪れる人々を魅了する。

「熊野神社 長床」  第37号(2007年11月)に掲載
 威風堂々とした銀杏の巨樹より拝む、国の重要文化財、新宮熊野神社「長床」は秋の“こもれび”に照らされて、黄葉の絨毯に輝いています。建立年次は不明ですが、昭和四+六年の解体調査によれば、形式・技法等から平安末期の建立とみられ、寛治三年(一〇八九年)の建立とすると、時代的に見て東北地方では「長床」が一番古く、三十五年後の一一二四年に平泉の中尊寺金色堂が建てられております。

「猪苗代湖の白鳥」  第36号(2007年4月)に掲載
 八万年前、磐梯山の噴火によって作られた猪苗代湖は別名“天鏡湖”と呼ぱれている。水質日本一の湖面を磐梯山を背に、悠々と遊ぐ白鳥の姿はまさに“会津の風物詩”。連日、地吹雪の続く会津には本当に珍しく晴れた日に撮ってみまLた。