子供の頃、火災があるとサイレンの音で血が走り現場へと駆け出し、とんでもない遠くまで行ってしまったこともあります。早い話が野次馬でした。これが記者生活37年の原点です。NHKに入局し初任地は横浜でした。警察担当として“サツ回り”に精を出し、特ダネを求めて「夜討ち朝駆け」もやりました。夜、警察官の自宅で帰りを待ち、帰宅を確認して訪ねるのですが、毎度門前払い。雨の中で待ったこともあります。傘を使うか、ずぶ濡れで待つかで相手の対応に差がありました。ある時、ずぶ濡れで待ったのですが、玄関の隙間から「ずぶ濡れじゃねぇか。ま、入れ」ということになり、それをきっかけに親しくなり、「泊って行け」という間柄にまでなりました。この方とは今も年賀状のやり取りが続いています。身をもって信頼関係の大切さを知り、記者生活の糧となっています。講演する柳澤氏
 その後、沖縄に転勤。イランのイスラム革命があった79年で、学生によるアメリカ大使館占拠事件が起きました。沖縄は中東とは関係ないと、のんびり構えていたのですが、嘉手納基地内の機関紙に救出作戦に向かった特殊部隊の犠牲者を悼む記事が報じられたのを見て、極東という枠を超えた戦争の現実を知りました。これが戦場記者の始まりだったのかもしれません。その後東京の外信部に異動しフィリピンのマルコス政権の崩壊を目の当たりにしました。これがきっかけで、タイのバンコク駐在の特派員になり、カンボジアの内戦取材にどっぷり浸かりました。海で囲まれた日本とはまるで違う、陸続きの国境の意味も考えさせられました。国境を挟んで、こちらと向う側では全く状況が異なる。火事場の規制線ではありませんが、先に行ってみたい気持ちを抑えることができず、国境を超えカンボジアの前線にも足を運びました。
 軍にエスコートされ、畦道のような一本道を延々と歩くこともありました。周囲のジャングルからは、反政府軍の狙撃兵が狙っているところです。一歩でも足を踏み外せば、そこは地雷原。逃げ道がないところにいると、自分がいかに無力か、実感しました。当時は、取材しても、東京にニュースを送る手段が十分ではありませんでした。電話やテレックスはあったものの、いつ繋がるか分からない代物でした。しかし現地では自分のペースで好き勝手ができました。それが衛星通信を使えるようになると、「今、何処にいる?」「定時連絡を!」と、東京から頻繁に連絡が入るようになり、正直、うんざりしたものです。
 91年の湾岸戦争は初めてリアルタイムで戦争が茶の間に入ってきました。イラク現地からのリポートは英語。生放送は同時通訳が日本語に翻訳するという手法でした。当時、イラク情報省には日本語ができる担当者がいませんでした。このため、リポート内容を検閲するために、日本語の使用を禁止したのです。担当官には事前にリポート内容を英文で渡し、本番ではそれを日本語で伝えると言ったのですが拒否。原文通りに話しているのかチェックできないと言うのです。このことは「戦場には信頼がない」ということを、私に痛感させました。戦争を伝える難しさもあります。何人死んでも一人一人の死の重みは同じはずです。百の言葉より、傷ついた人や死体の映像の方が解り易いこともあります。しかし映像にも限界があります。爆音などのインパクトに圧倒され、視聴者にカメラのフレームに入らない周囲のことを的確に伝えることができなくなることもあります。映像で映しだしているものは「事実」です。でも必ずしも「真実」ではない!そんなことも実感しました。戦場の凄惨さにマヒしてしまい、もっと強い刺激が欲しくなることもありました。「自分だけは大丈夫」という落とし穴にもはまります。友人の記者が「この戦争はダーティだ」と言いましたが、「戦争はみなダーティ!」「War is Dirty !」ではないか。戦争は二度と繰り返さないと言いますが、一つ終わってもまた起きる。戦争に終わりがあるのか?戦争が終わったと言えるのは「戦死者」だけというのが皮肉な現実です。
  日本に戻り、ニュースウオッチ9のキャスターを務めているときに体調を崩し降板。その後職場復帰すると、上司から朝の番組をやってみないかと打診され「あさイチ」に出演するようになりました。「八重の桜」の綾瀬はるかさんの隣に座るという役得もありました。番組の中で家庭内のことを調子にのって暴露し、戦場では踏まなかった地雷を家で踏んだこともありましたが、世界観が拡がりました。あるテレビドラマの中で物理学者役の福山雅治さんが「結果には必ず原因がある」と格好よく言っていました。物理学者は現象を観察して仮説を立てそれを実験で証明する。記者も似ています。現実をよく見て取材で材料を集めて、それをもとに筋道を立てて実証する。私も最近、福山さんにあやかって「ニュースには必ず過去に種がある」をモットーに記者遍路を続けています。

<柳澤 秀夫氏プロフィール>
昭和52年NHKに入局。横浜、沖縄各放送局記者を経て昭和59年から外信部記者。バンコク、マニラ各特派員、カイロ支局長を歴任し、カンボジア内戦、湾岸戦争などを取材。平成14年に解説委員・中東情勢を担当。9.11同時多発テロ、イラク戦争などに関するドキュメンタリーや討論番組でキャスターとして活躍。ニュースウオッチ9を担当中に体調を崩し1年余り休養。平成24年6月解説委員長、本年6月現職